下山事件自殺説紹介ブログ

他殺説に比べ情報が手に入りにくい自殺説の紹介をします。

『昭和史探訪6 戦後三十年』 三国一朗(編) 番町書房

 この文献には『謀略と謎「下山事件」』という矢田喜美雄氏へのインタビューを収めた章があります。昭和50年(1975年)出版で、昭和48年の『謀殺 下山事件』とあまり時間的に離れていませんが、この本でしか触れられていないことが結構たくさん書いてあるので、それらについて主に紹介します(管理人の記憶違い等で『謀殺』やその他の文献にも書かれていることもあるかもしれませんがご容赦ください)。

 まず最初に細かいところを挙げると、矢田氏が東大法医学教室の特別研究員になったのは検察庁に「頼まれた」のが理由で、矢田氏が記者ではなく「矢田探偵」として検事たちをひきずるような形で下山事件の解明に突入したこと、慶応大学中館教授の東大鑑定批判は米軍CICの指示によること、GSもG2も事件当時はそうひどい対立はなかったこと(これは『下山事件 最後の証言』で柴田哲孝氏が後に指摘していることです。増補完全版p555)、警視総監田中栄一氏は他殺だと知っていたがG2に抑えられたこと、などがあります。

 下山氏は八重洲ホテルでG2の将官らと情報交換していたと矢田氏は述べていますが、その間に立っていたのが下山氏の中学時代の親友M氏で(原著の表記通り)、5日に行方不明になった日に三越に行くよう下山氏に指示を出したのもこの人物だということです。事件の2日前に西銀座の関西料理屋で「紹介する人があるから三越で会おう」という流れになったらしく、この情報は矢田氏は直接「下山夫人からも聞いた」とのことです(刑事や矢田氏以外の記者には、夫人は三越行きの理由は分からないと述べています)。M氏についてはこれ以上詳しい情報は書いてありません。5日朝、三越に入った下山氏は犯人たちに取り囲まれ、「話が違うじゃないか」と口論になり、この様子を店員たちも約7分間に渡って目撃したといいます(こういった事実は当時の新聞記事にも下山白書にもありません)。誘拐犯らは昭和23年8月、政令201号反対の職場放棄をした旭川機関庫の共産党の職場リーダーだということです。この後の話は『謀殺 下山事件』のH・Oのノートと同じです。なお、誘拐後に車に乗せられて移動している下山氏を見たという証言をした大津正氏(佐藤栄作氏の秘書官)は、その話が記事になった翌日から約一ヶ月行方不明になり、その間はGHQに軟禁されていたとのことです。「実はあれをしゃべったおかげで、GHQの地下室の牢にぶちこまれていた。まっくらな所でひどかったよ」という話を矢田氏は直接大津氏から聞いたと述べています。

 五反野周辺を徘徊した替え玉の正体は、下山氏には似てもつかない容姿の「きく○○ろく」(原著の表記通り)という人物らしく、東京地検は彼を取り調べしたにもかかわらず籍がCICにあったため、逮捕はできなかったようです。なお、東京地検はこの人物を含め計36人の容疑者をチェックしたそうですが、その全員がCICに所属していたということです。

 最後に「ひそかにはだれがやったかと語られてはいるが、オフィシャルには遂にならなかった」という意味で張作霖事件と下山事件との類似も指摘されています。結論としては、日米安保条約があるために、事件の全貌を知っている人がいても話すことはできず、張作霖事件の場合の敗戦のような、世の中の大きな変化がなければ下山事件の真相も明らかにはならないだろうと締めくくっています。


※この記事をアップしたすぐ後に気づいたのですが、『語りつぐ昭和史 激動の半世紀6』の矢田喜美雄氏による「下山事件」という章にM氏のことがやや詳しく書いてありました。M氏は下山氏の静岡中学校時代の友人で、戦前の共産党に入党し、ドイツにも留学経験のある人物でしたが帰国後に右翼に転向し、占領軍が日本人協力者を募っていると知って、自分から米軍に近寄って行ったそうです。M氏は下山氏が国鉄総裁に就任すると労働運動のコンサルタントとなり、下山氏に首切りに対処する情報を提供したといいます。

 この本が出版されたのは『昭和史探訪6 戦後三十年』の2年後ですが、M氏が下山氏を三越に誘う経緯が異なっています。上にも書いたように、事件の2日前に西銀座の関西料理屋で三越で会う約束をしたと断定調で書かれ、下山夫人からも裏づけを得たと述べていますが、『語りつぐ昭和史 激動の半世紀6』では、失踪前日の7月4日の午後6時30分頃有楽町のレイルウェークラブで下山氏は「長い電話を誰かにかけていたようでした。私の推測ですが、その相手は例のMだったのではないかと思います。恐らく翌朝、三越開店時刻の九時半(当時)までに日本橋三越南口で会う約束をしたのだと思います」と、約束をした日時も違えば、ちゃんとした証拠もなく推測に過ぎないと自ら認めています。下山夫人の話もこの本では出てきません。血痕のところでもそうでしたが、矢田氏の証言というのは本当によく変わるようです。
  1. 2008/05/23(金) |
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『証言・私の昭和史6 混乱から成長へ』 テレビ東京(編) 文藝春秋社

 昭和史の生き証人たちにインタビューして証言をとるというテレビ番組の内容を書籍化したものです(下山事件は、昭和41年7月1日放送分)。様々なテーマのうちのひとつが下山事件で、証言をしているのは元朝日新聞記者の藤井恒男氏、元東大教授教授古畑種基氏、元国鉄総裁加賀山之雄氏、元警視庁捜査一課関口由三氏の4名です。以下に簡単に内容をまとめます。

 加賀山氏は、鉄道を愛していた下山氏が鉄路の上で自らの命を絶つはずはないと述べています。加賀山氏はGHQ犯行説には否定的で(絶大な権力を有していたアメリカがそんな小細工をする必要がないという理由で)、コミンテルンが下山、三鷹、松川の一連の事件の首謀者であろうと推測しています。

 古畑氏は、当時死後轢断という結論にとどめたものの、その中には他殺という含みもあり、その考えは全く変わっていないと述べています。死因としては血抜きを推定しています。当時の警察の捜査に関しては、不満はあるものの一定の評価をしているようです。ただ、国際犯罪として頭を切り替えて捜査しなければならなかったとしています。

 関口氏は、目撃者の存在、失踪前の不可解な行動、睡眠薬を相当量もらっている事実、死体運搬がほぼ不可能であることから自殺を主張しています。警視庁の自殺発表を阻止したのはGHQであろうというのが関口氏の意見です。

 藤井氏は、下山事件発生時の取材にまつわる逸話や、朝日新聞は東大法医学教室の鑑定結果に非常に重きを置くという姿勢だったことを話しています。矢田喜美雄氏の東大法医学教室取材グループや、警視庁詰めのグループとは別で、事件当時は五反野の現場近くの民家に頼んで前線本部を作り取材したとのことです。藤井氏は他殺だと考えており、轢断現場周辺や末広旅館で目撃された人物は替え玉であろうとしています。『講座・コミュニケーション5 事件と報道』によると、朝日新聞の下山事件担当デスクが藤井氏だったとのことです(毎日新聞は平正一氏)。「この二人のデスク記者(藤井氏と平氏のこと)が洪水のように流入してくる下山事件の情報を最初にフィルターする役目を担っていた」とあります(『講座・コミュニケーション5 事件と報道』p146)。
  1. 2008/05/12(月) |
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『国鉄の戦後がわかる本 上巻』 所澤秀樹(著) 山海堂

 昭和20年から43年までの国鉄の歴史を述べた文献です。昭和24年のセクションでは下山事件、三鷹事件、松川事件にも簡単ではありますが触れています。この年の国鉄発足は日本鉄道史における大きな転換点ですが、一般庶民にとってはどうでもよかったらしく、さして話題にものぼらなかったことなどが書かれています。

 下山氏の死体運搬に使われたのではないかと言われた1201列車を始めとする連合国軍専用列車(Allied Limited、Dixie Limited、Yankee Limited)は、昭和21年に誕生しており(1201列車は4月22日)、当初は臨時列車でしたが需要が多かったため定期化されています。連合国軍専用列車には状態のいい客車が接収され使われ、白帯が巻かれるとともに「ALLIED FORCES」とか「US ARMY」という文字が書かれていました。日本人はどんなにお金を積んでも乗ることのできない豪華な連合国軍専用列車を「白帯車」と呼んで羨み、敗戦という事実を痛感していたといいます。

 下山氏が東京鉄道局長時代に起きた高麗川列車脱線転覆事故(昭和22年)や、加賀山氏が国鉄総裁を退任するきっかけになった桜木町事故(昭和26年)などについてもコンパクトに紹介されています。高麗川列車脱線転覆事故は死者184名、負傷者497名を数える大惨事でした(死傷者の数はソースによって微妙に違いますが200人近いのは確かなようです)。ところでなにかと人情家で正義感の強い人物として語られる下山氏ですが、この事故の際には責任をとって辞職しなかったため、内部からは驚きの声があがり、冷たい人間という評価が定まったとも言われています。これに対し、加賀山氏のほうがむしろ人望があり、シャグノンの言う無理難題にも臆することなく抵抗していたということです(『松本清張の陰謀』p36)。
  1. 2008/05/08(木) |
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『翔んだ男 矢田喜美雄』 「翔んだ男 矢田喜美雄」刊行委員会(編) 

 『謀殺 下山事件』で有名な矢田喜美雄氏と交流のあった人たちが集まって纏めた原稿集です。大きく扱われているのは、矢田氏が高飛びの選手として参加したオリンピック、小学校教師時代のエピソード、下山事件関連、南極観測の企画などです。

 矢田氏は1913年(大正2年)、山梨県八代群に三男として生まれました。父親は県では有名な教育者でした。矢田氏は小さい頃から運動が得意だったようで、早稲田大学高等師範学校時代にはベルリンオリンピックに走り高跳びの選手として出場し、見事5位入賞を果たしています。写真を見ても痩身でスラリと背が高く(182センチ)、スポーツマンらしい容姿で、実際女性には相当モテたようです。高等師範を卒業後も大学に残って競技を続けたかったらしく、同大学文学部史学科に進みましたが、当時は師範学校出は小学校の教師になる義務があったため、大学に在籍しながら山梨県の小学校で教師として働きました。教育理念は京都大学の木村素衛教授に指導を受け、画一的な没個性教育を否定した型破りな指導を実践しました。この頃の矢田氏は、藤沢桓夫の小説『新雪』の主人公のモデルにもなっています。教え子の親を殴ったりするなど、同僚や校長からは良い評価を受けてはいなかったようですが、子供たちには大変人気があり、彼らはその後「矢田会」という同窓会を作っているほどです。軍歴は記録がはっきりしませんが、1938年に軍隊に入っているようです。その後大阪の済美小学校を経て、1942年に朝日新聞社に入社しています。

 朝日新聞入社後は、下山事件を別にすると、南極観測を実現させたのがやはり最も大きな仕事でしょう。矢田氏は朝日新聞社や東大の科学者に働きかけ、当初は実現困難と思われた南極学術探検の案をその類稀なる発想と行動力で現実のものとしていきます。ただ、この文集に寄稿した多くの人が述べているように、矢田氏は極めて魅力的な人物である反面、「はったりが強く」、「クセのある、自己主張の強い人物」で、思い込んだら誰も止められない「暴れ馬」であり、それが災いして科学者との間に大きな溝を作ってしまい、南極観測プロジェクト自体は実現したものの、結局夢見ていた自身の南極行きは果たせませんでした。朝日新聞の上司や同僚は氏をコントロールするのに大変な苦労をしたようです。しかし、南極観測のような大プロジェクトは、彼のような人物がいなければ決して成功しなかったのは確かでしょう。

 朝日新聞が主催したミロのヴィーナス展の際も周囲との軋轢があったそうですが、そのとき矢田氏と周囲との間を取り持ったのが「知る人ぞ知る大原茂男氏だった」、とあります。詳しく書いてありませんが、捜査二課の大原茂男氏(諸永裕司氏の『葬られた夏』などにも出てきています)と矢田氏は昵懇の仲だったと思われるので、同一人物の可能性が高いと思われます。なお、南極観測やミロのヴィーナス展など多くの企画に携わった矢田氏は自他共に認める「朝日新聞に一番、金を使わせた男」でした。何かを思いつき、実行に移す際には周りを巻き込むパワーを持っており、いつも気が付くとその場の主になっているような人物だったようです(下山事件の東大法医学教室でもそれは同じだったと書かれています)。

 結婚は同じ朝日新聞社で年上の女性記者としています。最初は色よい返事をもらえなかったようですが、ラブレターを何通も書くなど猛アタックの末めでたくゲットしています。矢田氏は朝日新聞労組委員長を務めたそうですが、奥さんも共に精力的に労組で活躍したといいます。夫婦仲は良く、矢田氏は奥さんに手編みのマフラーをプレゼントするなど、思いやりのある旦那さんだったようです。

 上記の事柄以外にも、絵を描いて美術展に入選したり、『謀殺 下山事件』の演劇の脚本を書くというエピソードがあり、多くの才能と引き出し、そして手に負えないほどの(?)パワーに溢れた人物だったといえるのではないかと思います。この本を読む前にも「型破りな人」という印象でしたが、予想以上だったというのが感想です。朝日新聞退社後は東京の明治通り沿いのボウリング場の経営に携わるよう誘われ、4年間そこで常務として勤務しています。苛烈に生きた矢田氏ですが、『謀殺 下山事件』の出版記念会の後には体調を崩しがちになり、奥さんの後を追うようにして1990年にお亡くなりになっています。

 ところで当ブログ管理人は、矢田氏の苗字を「やだ」と読んでいましたが、本文献中には「ヤタイズム」「ヤタッペ」「ヤタ・ダンサーズ」などの言葉が複数出てきており、もしかしたら苗字は「やた」と読むのが正しいのかもしれません。ただ、新風舎文庫版『謀殺 下山事件』の著者紹介は「やだ」となっているので、どちらが正しいのかは分かりませんが。
  1. 2008/04/28(月) |
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『戦後十年 秘録・流転にっぽん』 キング八月特大号付録 講談社

 『戦後ニッポン犯罪史』の下山事件の部分でこの本のことが触れられていたので読んでみました。昭和30年発行の古い文献です。

 共同通信社会部次長の松尾義雄氏による「警視庁の内幕」という章で、下山事件自殺発表中止にまつわる警視庁、政府、GHQそれぞれの思惑などが書かれています。共同通信社会部というと、他殺説の斎藤茂男氏を思い出しますが、筆者の松尾氏は自殺だと考えており、「(下山事件は)都合によりハッキリしなかったのだというほかない。ハッキリしなければならない時期に、横槍が入ったためその時期を失ったというのが真相である」と述べています。松尾氏によると、「捜査一課の徹底的な捜査の結果、自殺である可能性が非常に高く、しばらく捜査を継続しても(これは二課の捜査のことだと思います)何も出てこなかった場合には、自殺を警視庁内部の統一的な結論としようということになった。しかし、GHQと、その威をかりた日本政府によって、警視庁が単独で自殺という結論を新聞に発表したり、自殺を断言するのは慎むように条件が付けられた」ということのようです。その後いわゆる「下山白書」が流出し、「自殺説が流布すれば喜ぶのは共産党のみ」とGHQは激怒し、警視総監田中氏や刑事部長坂本氏は叱責され、官房長官増田氏からも吊るし上げられたということです。この一件で捜査一課長堀崎氏らが訓戒処分を受けています。

 ちなみに「G・H・Qの奥座敷」という下山事件とは直接関係のない章では、下山事件でもおなじみのウィロビー少将やプリアム大佐の写真があります。下山事件関連文献に名前が出てきているか、当ブログ管理人の記憶が定かではありませんが、その他ではホイットニー少将、マーカット少将、バンカー大佐の写真も見ることができます。

流転にっぽん


  1. 2008/04/23(水) |
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