下山事件自殺説紹介ブログ

他殺説に比べ情報が手に入りにくい自殺説の紹介をします。

当時の東大法医学教室とその周辺

 錫谷徹氏は『死の法医学 下山事件再考』の「下山事件の反省」という部分で、下山事件発生当時東大総長だった南原繁氏の以下の言葉を引用しています。

古畑教授(法医学主任)と秋谷教授(裁判化学主任)は、しばしば総長室に見えて、その経過を語られたが、東大医学部の結論は『死後轢断』、すなわち他殺を意味するものであった。その間、慶応の中館教授の部分的に東大と異なる見解に基づく、自殺説に有利な発表がなされた。私は、いずれの大学であれ、日本の法医学界のために、この重大な事件に対して、ひたすら期待し、激励もしたのであった。(下山事件研究会編 『資料・下山事件』(みすず書房) 序文iii-iv)


 一見もっともな意見ですが、錫谷氏は医師の秘密保持の義務の観点から、南原総長への法医鑑定の経過報告という行為に違和感を示しています(p263-265)。また、東大とも医学とも無関係、しかも秘密の洩れやすい新聞記者という身分の矢田喜美雄氏が法医学教室に自由に出入りするだけでなく、鑑定の手伝いまでしていたという事実にも言及しています。これは当然学内で問題になったそうですが、南原総長の一声で公認になったといいます。錫谷氏は東大内部からの批判があったいう事実から、当時の東大全体の雰囲気が特殊だったのではなく、問題は古畑教授と南原総長の個人的特殊性にあったのだろうと述べています。『語りつぐ昭和史』(朝日新聞社)の矢田氏自身の回想によると(p206)、東大で研究生扱いになってからは「政府から小遣い程度の月給」も出ていたといいますから、やはり非常に特殊な状況になっていたことが分かります。

 佐藤一氏の『一九四九年「謀略」の夏』(時事通信社)によると、矢田氏は実際の鑑定作業で特に活躍することはありませんでしたが(これは素人なので当然です)、労力提供、現場移動の際の朝日新聞社の自動車利用、大量に消費した薬品類の購入資金調達での貢献は抜群であったそうです(p266)。
  1. 2008/03/10(月) |
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アンザッツ・ブルートゥング(Ansatzblutung)

 アンザッツ・ブルートゥング(Ansatzblutung)という聞き慣れない言葉は何かというと、「法医学論争(12) 死後轢断鑑定の妥当性の検討−その3 現代の法医学から見た下山事件」で簡単に触れた「筋線維と骨との附着部における出血」を意味するドイツ語です。明確な生活反応に乏しい轢死体ですが、アンザッツ・ブルートゥングが認められれば生体轢断だと考えてもよいようです。管理者がこの言葉を知ったのは、『法医学のミステリー(文庫版)』(中央公論社)という文献でした(ひとつの章が下山事件に割かれています)。著者の渡辺孚氏は古畑氏の元で学んだ法医学者です。「法医学論争(12) 死後轢断鑑定の妥当性の検討−その3 現代の法医学から見た下山事件」の記事を書いたときには未読でしたが、この『法医学のミステリー』という文献に、東大法医学教室が下山氏の司法解剖の際にアンザッツ・ブルートゥングの有無を調べたのかどうか、そのヒントが次のようなエピソードとともに書かれていました。

 古畑氏の後を継いで東大法医学教室の教授になる上野正吉氏(当時北大)が昭和26年の日本法医学会での講演中に、それを聴いていた中館氏に壇上から「あなたはアンザッツ・ブルートゥングをご存知ですか?」と質問したのだそうです(演者が壇上から聴衆に質問するのは珍しいとのこと)。中館氏はどうやら知らない様子で、上野氏としては「アンザッツ・ブルートゥングも知らずに新聞記者相手に自殺説をぶつのはけしからん」という気持ちだったようです。しかし、知らなかったのは東大も同じようで、下山氏の司法解剖では調べられなかったらしいのです。中館氏も知らず、東大でも調べなかったアンザッツ・ブルートゥングは、轢死の法医学が未成熟だった当時の日本の法医学者には浸透しきっていない概念だったのでしょう。

 読んでみると著者の渡辺氏の下山事件に対する態度は、自他殺不明か、もしくはやや他殺説に近いと思われますが(法医学ではなく、矢田喜美雄氏や松本清張氏らの情報を元に)、少なくとも東大の法医学鑑定に関しては次のようにはっきりと意見を述べています。

…(略)根拠の弱い理由によって、死後轢断の結論を出している。明らかに傷口からもっと内部の検査をしていないことが、この発表の仕方によって歴然とする。本来は轢断が死後のものであることが積極的に証明されて、しかる後に死因は何かの追求に進むのだが、死後轢断そのものの証明はできていない。(p160)

…(東大法医学教室教授就任後も一貫して自他殺について明確な判断を下すことを控えた上野氏の姿勢について)当時の東大における解剖検査が十分にされずに、死後轢断の結論が出されて、その結論にまで導く大切な部分の論理に無理があるというふうに受け取れる。(中略)到底自殺したとは考えられない、という先入観に強く左右されたために、検査そのものが杜撰と言われても仕方がないような結末になったのではないか、というふうにも受け取れる。(p164)

もし古畑教授をはじめ東大勢に、死後轢断の学問的根拠が十二分にあって、自信をもって内外に主張することができるなら、陰でぶすぶす言うのではなく、警視庁のこの結論(※自殺という結論のこと)に対して、なぜ堂々と論ばくすることをしなかったのか。学問上のむずかしいことを知らない一般の人たちも、当然こうした疑問を抱いたに違いない。(p167)

  1. 2008/03/09(日) |
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開かずのロッカー

 下山氏の司法解剖をし鑑定書を作成した桑島氏は後に横浜市立大学法医学教室の教授になっています。昭和61年1月13日付けの産経新聞によると、横浜市立大学法医学教室には下山氏を解剖した際の写真や組織標本が”開かずのロッカー”の中に保管されているとのことです。この産経新聞の記事が出てから既に20年以上が経っていますが、今でもその資料は保管されているのか興味のあるところです。東京地検に提出されたという鑑定書もやはり未公開のままです。「下山白書」以外の捜査関係資料も現在のところ公開されていません。こういった重要な資料がいつか公開されることはあるのでしょうか。資料が自殺説、他殺説のどちらを支持するものであろうと、それらが公開され真実が明るみに出ることを管理者は望みます。
  1. 2008/03/08(土) |
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下山総裁の上着とワイシャツ

 下山総裁の上着とワイシャツはほころびひとつない状態で見つかった、と作家の松本清張氏や東大法医の古畑氏は著書のなかで述べています(『日本の黒い霧 上巻(文庫版)』(文藝春秋社)p94、『今だから話そう』(中央公論社)p227)。両者ともに、死体が轢断されているのに上着とワイシャツが破れていなかったのは、下山氏はどこかで殺された後裸の状態で線路上に置かれ、犯人グループがワイシャツを死体に着せずに現場近くに落としていったからだという推理を展開しています。しかしながら、事実はどうだったかというと、上着もワイシャツも背中や袖の付け根などが大きく切断されていたのです(平正一著 『生体れき断』(毎日学生出版社)p131-132、下山事件研究会編 『資料・下山事件』(みすず書房)p240、411)。古畑氏や松本氏の著作を参考にした上野正彦氏もやはり上着とワイシャツにほころびはなかったと考えているようです(『藪の中の死体』(新潮社)p177)。上野氏は矢田氏の『謀殺 下山事件』も参考にしていますが、そこには上着とワイシャツが破れていたことがはっきりと書かれているのですが(新風舎文庫版、p29、230-232)………。
  1. 2008/02/19(火) |
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法医学論争(12) 死後轢断鑑定の妥当性の検討−その3 現代の法医学から見た下山事件

 今回は前回の錫谷氏(1983年)よりも更に新しい法医学者の意見を紹介します。

 1986年1月6日付けの産経新聞は、米国公文書館から入手した轢断死体の写真をもとに法医学者たちの意見を仰いでいます。錫谷氏は写真は『死の法医学』での考察が裏付けられるもので、「明らかに自殺体」とし、木村康氏および匿名の国立大教授もほぼ同様のコメントをしています。そのほかに赤石英氏、八十島信之助氏、渡辺博司氏も生体轢断と考えて矛盾はないと述べています。特に八十島氏は、下山氏の死体の背骨が粉砕されていることから「下山さんは列車にひかれたとき、立っていたということだ」という、管理者の知る限り過去の資料では一度も述べていない意見を表明していて、興味深いものがあります。『資料・下山事件』(p198-200)の八十島氏の証言(昭和24年の日本法医学会臨時評議員会)を見ると、法医学論争には極力関わりあいたくなかったのではないかという印象を管理者は受けます。当時の論争の過熱ぶりと学会における古畑氏の絶大な権力を思えば当然かもしれません(1986年1月13日付けの産経新聞でも八十島氏は、古畑氏自身が著書『法医学』で轢死体は出血等の生活反応がみられないこともあると述べているにもかかわらず、下山事件では生活反応の有無を絶対基準としていたことに疑問をもっていたが、当時は言えなかったと述べています)。産経新聞はその他の多くの法医学者にも意見を聞いたらしく、写真だけではなんともいえないが仮に生活反応がなくとも生体轢断と判断するのが自然だという意見が大勢を占めたということです。ただ一人、越永重四郎氏だけが生体轢断なら必ず生活反応があるはずで、古畑鑑定を信ずると述べています。

 では次から他のソースを見ていきましょう。

 寺沢浩一著 『日常生活の法医学』(岩波書店、2000年)は下山事件の法医学論争に言及しています。寺沢氏は錫谷氏の次々代の北大法医学教室の教授ですが、錫谷説を評し「今日の鑑定水準からみて十分に妥当」「厳密な推論によって可能な限り真実に迫ったもの」と述べています(p80-83)。

 支倉逸人著 『検死秘録・法医学者の司法解剖ファイルから』(光文社、2002年)は非常に簡単にですが次のように述べています。「一般論としては「出血が伴わなければ死後の損傷」と判定するのが原則である。一方、特殊な状況として「血圧ゼロ状態での 生前の損傷は出血を伴わない」ということが認められるようになった。 下山総裁が轢断されたときに、そのような特殊な状況だったかは確実な根拠がないが、結局、自殺の可能性が高いということで落ち着いている。」(p20-23)。

 石津日出雄・高津光洋編 『標準法医学・医事法 第6版』(医学書院、2006年)の鉄道事故損傷の部分(p172)では「頭部・体幹・四肢が轢断されていても事故現場の出血量は少なく、身体各所の損傷は生活反応に乏しく、轢断部の組織に出血が見られないことも多い。これは損傷が著しく高度で、轢断時に瞬時に死亡して血圧が低下するためと考えられる。ただし、生前の轢断では、轢断された筋肉の近位側の骨との附着部には出血が認められることが多く、生活反応と考えられている。」と書かれています。轢死体の法医学的知識体系が未熟だった昭和24年当時、古畑氏と桑島氏が「轢断された筋肉の近位側の骨との附着部」まで詳しく調べたのかは分かりませんが、現代法医学の認識では、轢死体は出血量が少なく、生活反応に乏しいことは確かなようです。「教科書に記載される」ということは、繰り返し確かめられ、現代法医学の常識となっている現象なのだと思われます。

 生体轢断を支持する意見だけを紹介するのはフェアではないので、2005年出版の上野正彦著 『「藪の中」の死体』(新潮社)を見てみましょう。上野氏の結論は死後轢断(他殺)で、その根拠は大まかにいうと以下の3点です。
(1)轢断部に生活反応がない
(2)線路に沿って下山総裁と同じAMQ型の血液が検出された
(3)上着やワイシャツに損傷や血痕がない
(※線路上の血痕については近々検討します)

 現代でも上野氏のように法医学者によっては轢断面の生活反応をかなり重要視するようです。この辺になると素人の管理者にはどちらが正しいのか判断がつきませんが、多数決を取れば上野氏は少数派になるのではないでしょうか。また、(2)と(3)については今後取り上げますが、問題があります。議論の本質とずれますが、上野正彦氏の父で元東大教授(古畑氏の後継者)の上野正吉氏が、著書『新法医学』のなかで「(轢死の場合)時に異常な形の創傷を見る。出血等の生活反応も生前轢断でも時によってはこれが乏しいか、殆んど見られず、死後轢断かどうかの判断のつきかねることもある」(『下山事件全研究』p270)と述べているのは興味深いことです。

 さて、とりあえず現代の法医学まで辿り着きましたので、法医学論争の紹介は今回で終わりです。生体轢断か死後轢断かは、皆さんのご判断に委ねます。かなり端折って紹介した部分もありますから、これで興味を持たれた方は是非一次資料にあたってみてください。

 次回からは線路とロープ小屋の血痕の検討に移ります(多分)。法医学関係のネタは論争の紹介で取りこぼしてしまった点、本質とはあまり関係ないことなどを思いついたときに追加していきます。

※「轢断された筋肉の近位側の骨との附着部における出血」については、「アンザッツ・ブルートゥング(Ansatzblutung)」「現代の法医学から見た下山事件(追加分)」をご参照ください。
  1. 2007/12/26(水) |
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