昭和24年8月3日、目黒区碑文谷の刑事部長公舎二階に警視庁、地検、東大関係者(古畑氏など)が集まり、最終的な意見調整をするための会議が開かれました(午前10時から午後5時まで)。警視庁関係者から他殺の線を否定する様々な状況が述べられ、松本捜査二課長や検察官からも特に反論はなく、東大の古畑氏らも「解剖所見としては『死後轢断』という状態であったが、自殺ということも考えられないことではない」と述べたといいます。会議は紛糾することなく順調に進み、刑事部長の坂本氏はときどき二階から降りてきて、刑事部長公舎に張り付いて取材していた記者にも「うまくいっているよ」と報告していました。しかし会議終了間際に田中栄一警視総監から一本の電話が入ると、坂本氏は顔面蒼白となり急いで警視庁に帰り田中氏とともにどこかに出かけていきました(行く先はほぼ間違いなく増田官房長官の元であろうと『下山事件全研究』などの著者、佐藤一氏は推測しています)。会議を終え捜査本部で待機していた捜査関係者らのところに帰ってきた坂本氏は、崩れるように腰を下ろし頭をかかえこみながら、警視庁の公式見解としての自殺発表が不可能になったことを伝えました。その日の午後、警視総監田中氏は「この事件は複雑多岐にわたっており、警視庁としてはいま直ちに公式に自殺、他殺いずれとも決定できない状況にある」と、公式発表の延期と捜査続行を宣言しています。(『下山事件全研究』p186-187、『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』p102-104、『生体れき断』p235-237、『一九四九年「謀略」の夏』p259-260、269、『20世紀事件史 歴史の現場』p102-103、『毎日新聞社会部』p24、『「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流130年』p78-79)。
この警視庁による自殺断定発表を抑えたのは何者か、という点に関しては日本政府説とGHQ説があります。元毎日新聞記者で『生体れき断』の著者、平正一氏は日本政府説を採っているようです(週刊文春、昭和40年10月18日)。
以前のエントリで述べた、増田官房長官から毎日新聞の報道に圧力がかかったことなどが関係していると思われます(『下山事件全研究』p188-189)。新聞記者を官邸に呼んで報道に介入し圧力をかけるような官房長官のいる政府が、警視庁にも圧力をかけることは十分に考えられることです。同じく新聞記者の菅野長吉氏(朝日新聞)は、「発表直前になって内閣の増田官房長官から田中警視総監に電話があり、『きょう下山総裁事件について自殺決定の発表をするそうだが、時期尚早だと思う。中止してもらいたい』といわれたという。本当かどうかは確かめられなかったが、ありそうな話ではある」と述べ、やはり日本政府説を主張しています(当時菅野氏らは「政治的に尚早ということか」と憮然としたということです。『朝日新聞記者の証言5』p111-112)。
では実際に増田氏自身はこの件についてどう述べているのでしょう。下山事件発生から10年後には、増田氏は「ただむやみに結論を急いではいけない」と注意しただけで、発表させなかったとか、米軍の圧力があった、というのはデマだ、とコメントしています(『「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流130年』p82)。しかし、昭和59年(1984年)の自著では、「警視庁が下山事件の捜査打ち切りを公表したとき、私は『捜査を続行しなさい』と勧めてみたが」、田中氏は「私は米国にいいつかった警視総監です。あなた方の部下じゃないですから……」と突っぱね、増田氏も「警視庁は日本国とは別なのか」と憤慨し反論しましたが結局命令は聞き入れられなかった、と述べています。この「命令」という言葉は増田氏自身が使っています(『増田甲子七回想録 吉田時代と私』p141-142)。自殺断定で終わらせずに捜査を継続させる方向の働きかけが政府からあったのは確かであり、また、田中氏が増田氏の指示に従うことを強く拒否していることなどから、その時点では警視庁の自殺断定に対する意気込みは相当なもので、政府でさえも抑えることはできなかったことがわかります。しかし結局は警視庁は自殺断定発表には踏み切れなかったわけですから、この後になんらかの大きな動きがあったものと考えられます。
以前のエントリで紹介した、毎日新聞記者の送別会に田中氏が現れ、制服のまま頭を畳にすりつけ「どうか、お察しください」と平伏し動かなかったというエピソード(『毎日新聞社会部』p26、『毎日の三世紀』p80)も、なんらかの圧力がかかったことを示唆しています。なお、増田氏以外の政府関係者については、昭和24年7月29日付の読売新聞に「捜査はあくまで続行する。他殺、自殺いずれにせよ事件を解決することが社会不安の緩和上からも最大の眼目で、現場の捜査陣がどう言おうともいいかげんで捜査を打ち切るが如きは政府当局として絶対させない、捜査費用が足りぬなら政府としても五百万でも三百万でも出すからあくまで捜査を続行するよう警視総監にも伝えてある」という樋貝国務大臣の談話があります。
もう一方のGHQ説を採る人には警察関係者が多いようです。捜査一課の関口由三氏は、推測だと前置きしつつもアメリカ筋の圧力であろうと述べています。当時の捜査本部にはCICやCIDの二世のアメリカ軍人が出入りしており、彼らは自殺の線の報告には不快感を示していました(『資料・下山事件』p289、296-297)。刑事部長だった坂本氏ははっきりとGHQが自殺断定発表を押さえたことを認めています(『下山事件全研究』p187-188)。坂本氏らは、自殺を断定し真相をはっきりさせておくほうが治安当局の権威を高め、国民の不安を鎮めるために必要だと強硬に主張しましたが、GHQ側は、他殺の疑いを濃く残しておくほうが左翼を抑えるための政略として好ましいとし、彼らの意見を受け付けませんでした。しかし、捜査一課の堀崎課長は8月2日にG2のPSD(参謀第二部公安課)のプリアム大佐に会い、自殺発表の同意を得ていたという情報もあります(『生体れき断』p235)。つまり、8月2日の時点では、少なくともプリアム大佐レベルではGHQも自殺断定発表に合意していた可能性があるのです。ここでやはり重要な出来事は、8月3日の毎日新聞の自殺報道(
「矢田喜美雄氏と平正一氏」参照)であろうと思われます。この毎日新聞の記事は増田官房長官を激怒させるとともに(『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』p103)、GHQに対しても少なからぬ衝撃を与え、彼らに何らかの対抗措置を取らざるをえなくさせたようです(『20世紀事件史 歴史の現場』p104、
「彼らを黙らせろ これは自殺ではない」参照)。毎日新聞の下山事件担当デスク平正一氏は後に「最後の合同捜査会議を私が見過ごしていれば、何事もなく自殺決定の発表がスムーズに行われていたような気がします」と語っています(『「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流130年』p79)。
なお、『マッカーサーの日本(下)』(新潮文庫)には、下山事件当時G2の公安課に所属していた、ハリー・シュパック氏のインタビューが収められています。シュパック氏はプリアム大佐の部下で、GHQ上層部と田中警視総監を始めとする警視庁幹部との調整役をしていたといいます。彼は下山事件をめぐる田中氏とのやりとり(事件発生から約一ヵ月後)について以下のように述べています(p246-247)。このシュパック氏の証言については、刑事部長の坂本氏もある程度の(あくまで「ある程度」ですが)信憑性を認めています(『下山事件全研究』p188)。
「警視総監の田中は“九分九厘自殺である”という見解を打ち出し、私もそれに同意した。私はそれ(注=自殺説)を報告書に書いて、上司(注=プリアム公安課長)に提出した」
(中略)
「その結果、ウィロビー少将(注=G2の長、反共で有名)のオフィスから、プリアム課長を通して私に与えられた指示は、“他殺として扱え”ということであった。その指示は、文章で私に与えられた。そこで私は田中総監に会って、口頭で“他殺として扱え”といったら、田中は“ノー”と答えた。田中はサムライで、誇り高い男だった。“イヤだ、同意できない”とハッキリ言った。田中は非常に困惑した表情でそういった。
そこで、私と田中は歩み寄りを考えた。それは“では、必ずしも他殺ということではなく、自殺、他殺両方の可能性を含む線を出そう。少なくとも、自殺とハッキリ言明はしない”ということに落ち着いた。―――GHQの目的は、そのように扱うことによって、共産党に圧力をかけることであった。この目的は、プリアムが私に言葉でそういったわけではない。しかし、当時のフンイキは、誰もが共産党の仕わざだと思っていたし、公安課の空気からいっても、プリアムの意図は明瞭に読み取ることができた。冷血な殺人鬼、腹黒い暴力者としての共産党……、その印象を、人々の頭の中に残しておく必要があった。それは純然たる政治的宣伝(プロパガンダ)である。自殺ではなく、他殺のニオイを残して迷宮入りにすれば人々がいろいろと憶測する。その結果、共産党に圧力がかかる。そういう筋書きであった。―――しかし、田中総監はインテリで正直者(オネスト)だった。総監は自殺の線に確信を持っていたし、私は彼の友人として、“自殺と言明してはいけない”と強制することはきわめてむずかしい仕事だった。私自身も、この指示は、GHQの小心さを物語るものだと思っていたのだから……。田中は“イヤだ”といったが、私は“やむを得ない”と、彼を説得した……」
1970年代後半になってアメリカ公文書館が占領軍関係文書の公開を始めてから、下山事件の報道や警視庁の捜査をコントロールするため、日本政府と占領軍の情報機関G2が密接に連携を取り合っていたことが明らかになりました(『一九四九年「謀略」の夏』p260-263、『「毎日」の3世紀』p86-87、『松本清張の陰謀』p26)。つまり上に挙げた日本政府説とGHQ説は対立するものではなくどちらも正しい可能性があるといえるでしょう。公開された占領軍関係文書によると、刑事部長公舎で会議が開かれた日と同じ昭和24年8月3日、おそらく下山事件関連の意見を吉田首相と交換するため、G2部長ウィロビーは首相官邸を訪れています(『一九四九年「謀略」の夏』p261、『下山・三鷹・松山事件と日本共産党』p103)。そのとき吉田首相は体調不良で会見することはできませんでしたが、官房長官の増田氏と会い、その際に警視庁の自殺断定の動きを抑えるための話し合いがなされたのではないかと推測されます(『一九四九年「謀略」の夏』p262)。この会談の後、GHQのお墨付きをもらった増田氏が田中警視総監らを呼び出し、再度捜査方針について要望を押し付けた、というストーリーはそれ程的外れではないように思われます。
延期になった下山事件に関する警視庁の公式見解は、結局その後目立つ形では発表されることはありませんでしたが、1978(昭和53年)に発行された『警視庁史 昭和中編(上)』で「捜査結果の総合的判断に基づいた自殺認定」(p735)、「警視庁の自殺認定は動かぬものとなった」(p766)と明言しており、当時公式発表はできなかったものの、警視庁内部での見解は明確に自殺であったことが分かります。田中栄一氏は、昭和29年6月29日、「下山事件は自殺だった。しかし、公表はできなかった」という言葉を残して警視総監の椅子を去っています(『生体れき断』p237)。
※
昭和61年(1986年)1月26日付の毎日新聞では事件当時刑事部長だった坂本智元氏は、少なくとも彼に対してはGHQからの圧力は無かった、と証言しています。以下にそのインタビュー(インタビュアーは増田滋氏)の一部を引用します。
平正一さん(事件担当の毎日新聞社会部副部長・故人)の著書「生体れき断」では日本側が発表を抑えた、とあり、「下山事件全研究」を書いた佐藤一さん(松川事件で死刑判決を受けたが、のち無罪。故南原繁東大学長ら学者、文化人十一人が他殺証明の目的で発足させた研究会事務局長。調査を進めるうちに自殺論者になった)の理解ではGHQ(占領軍総司令部)が抑えたとなっている。真相はどうなんです。
坂本さん 目に見える圧力はない。堀崎捜査一課長も官房長官に呼ばれたことはあったようだがね。ただ私としては他殺説が圧倒的に多かった時期に世論を無視して「自殺」を発表すれば、警視庁が悪口をいわれるだけだから当方は公表しない、とは官房長官に言いましたよ。私自身にはどこからもかん口令はしかれていない。結局のところ、警視庁は自殺、法医学は他殺という形で自他殺不明というほかなかった。
そうするとGHQと自由党政権でキャッチボールがおこなわれたのでしょうか。
坂本さん ワシは知らん。ただ当時の情勢として、労組員がやったとか、共産党がやったとかいえば国鉄はゼネストがストップし人員整理もスムーズにいく。その効果をなるたけ長く持たせたいという気持ちは、私が政治家だったとしても考えたかもしれない。だけど、さすがに刑事部長に注文をつける者はいなかった。
ああそうですか。
坂本さん 警視総監(田中栄一・故人)のことまでは知りませんが。ただね、自殺を他殺だといったり、警察がそんな政治警察のようなことをやるようになっては断固いかんと思ってましたよ。
- 2008/09/12(金) |
- 政府・GHQ関係
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様々なサイトで同じような画像は既に見ることができますが、五反野周辺をぶらっとしてきたのでそのときに撮った写真のうちいくつかをとりあえずアップします。






下山国鉄総裁追憶碑
昭和24年7月 下山事件発生
昭和26年7月 下山貞則氏記念事業会により、記念碑を事件発生現場付近に建立。
昭和45年9月 千代田線建設工事に伴う移転の際、加賀山元国鉄総裁の揮毫となる、本石碑に取り替え。
平成3年5月 常磐線荒川橋りょう改良工事に伴い、本位置に移設。
- 2008/09/09(火) |
- 下山事件よしなしごと
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以前のエントリで最近の法医学の文献における鉄道での轢死の扱いを見ましたが、今回は更に他の資料からの情報を追加します。最初に念のために書いておきますが、自殺説に有利な内容のみを選択して紹介しているわけではありません。ただ、最近の法医学の情報を集めると、結果的に自殺説を主張した中館氏や小宮氏の主張に沿うものが多くなるというだけです。
下山事件発生当時にはおそらく主流ではなかったと思われる「生体轢断でも生活反応が乏しい場合がある」という考えが、ここで紹介するどの教科書でも述べられています。このような情報は書店や図書館に行けば容易に見つけることができますが、どういうわけか他殺説の文献では最近出版されたもの(柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』など)でさえ全く触れられていません。今回紹介する情報の中で管理人が最も興味深いと思ったのは、『臨床のための法医学』のなかの「着衣が断裂していなくても、人体が断裂する場合もある」という記述です。上着が断裂していないのに下山氏の死体が離断されているのはおかしいと他殺説は主張していますが(『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p99)、現代の法医学的から見れば特に珍しいことではないようです。しかも、実際には上着は断裂しており、柴田氏は二重の意味で間違っているといえます(
「下山総裁の上着とワイシャツ」参照)。「死体の右足が轢断されていないのに右足の靴の損傷が激しかった」という、他殺説論者が死後轢断説を主張する際にしばしば持ち出してくる事実(『シモヤマ・ケース(文庫版)』p74-75、『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p186)も、列車との衝突の衝撃でまず最初に靴が脱げたと考えればなにも不自然な点はありません。なお、以下の文献に書かれている「轢断部から少し離れた組織で、しかも近位側に出血を見ることが多い」、「離断筋肉の近位側付着部の出血をみることがあり」、「轢断部の組織が圧迫される結果、その近くに追し流された血液によって血管内圧が上昇し、血管が破綻して組織内に出血することがある」といった記述は、以前取り上げた
アンザッツ・ブルートゥングのことを指していると思われます。
『臨床医のための最新法医学マニュアル』 塩野寛(著) 新興医学出版社 1995年
p48
死体に存在する損傷は生前に生じたものか、死後に生じたものかを判断する所見として生活反応がある。生活反応とは外部からの異常刺激に対して生体が反応する病態生理学的反応で、死後も確認できるものである。しかし瞬時に大きな力が加わって死亡した場合(轢断死体など)には、死亡までの時間がきわめて短いために生活反応は識別できないことが多い。
『エッセンシャル法医学 第3版』 高取健彦(編) 医歯薬出版株式会社 1997年
p92
線路上に横たわり轢過され、腹部、頭部などが轢断されていても、事故現場での出血量が意外と少なく、轢断部分に出血や凝血を認めない例もある。これは人体の受けるエネルギーが大きく、瞬時に死亡、血圧低下を来たすためである。受傷時に循環機能があれば、轢断された筋肉の近位側の骨との付着部や組織を注意深く観察すると出血がみられることから、生活反応の有無の判定可能である。
『法医学』 福島弘文(編) 南山堂 2002年
p71
受傷後きわめて短時間でほぼ瞬間的に死亡した場合には、損傷部にほとんど出血が見られないこともある。例えば鉄道車両による轢過では、ほとんど出血がない例にしばしば遭遇する。
p79
轢断部の生活反応を観察することが重要である。轢断部は、大血管が損傷されていても、出血や凝血を伴っていないことが多い。これは、急激な循環の停止によって血圧がなくなるうえに、轢断部に車輪による強い圧迫が加わるためであると考えられる。しかし、詳細に検索すれば、轢断部から少し離れた組織で、しかも近位側に出血を見ることが多い。車底構造の機械油類と血液をていねいに拭い、損傷を詳細に観察することが肝要である。
『臨床のための法医学』 澤口彰子ほか(著) 朝倉書店 2005年
p77-78
損傷は重篤で、轢断される場合、多数の組織片にばらばらになる場合などがある。車輪・レールの間に挟まれた部分の組織は挫砕されその部で離断する。着衣が断裂していなくても、人体が断裂する場合もある。内蔵が完全に離断しているが、皮膚だけがなお連続性を保っている場合もある。
鉄道車両による轢過の場合も、損傷部からの出血・凝血付着所見、現場の流動血などから轢過の生前死後の判断をするのが原則である。しかし、明らかに生前轢断の死体でも生活反応としての出血が乏しい場合がある。組織・血管が重量のある鈍体で強く圧挫され捻れて挫滅すること、離断端の血管筋肉が反射的に収縮すること、瞬間的な死で血圧が瞬時に低下することなどが原因で轢断部からの出血が乏しいと考えられている。ただし、離断筋肉の近位側付着部に出血をみることがあり、これは生前轢断を示す所見と考えられ、筋付着部出血という。また、注意深く観察すれば小さな損傷に皮下出血などの生活反応をみることができるものである。
【参考】
<生前の損傷なのに出血を伴わないことがありうるかどうか>
(赤石英著 『臨床医のための法医学』より)
列車の時速をXkm、轢砕距離をYm、轢砕時間をZ秒とすると、Z=3.6×Y/X。仮にX=60km、Y=0.3mとすれば、Z=0.02秒となる。すなわち、頭部や胸部などを轢断あるいは破砕される場合は、生命維持に最も重要な部分が1/100秒単位で障害・損傷されるため、血圧が瞬時に急降下することになる。動物実験によると正常血圧の場合でも、受傷の瞬間に皮下出血が起こるのではなく、1〜2秒から数秒の時間を要することが多く、血圧が正常の1/2になれば出血は出現しなくなる。
したがって、列車轢断のように血液循環機能が瞬間的に途絶する場合、生前の損傷でも出血が伴わないことがありうる、という。
『学生のための法医学 改訂6版』 田中宣幸ほか(著) 南山堂 2006年
p56
鉄道車両は重く車輪も軌道も鉄製であり、轢過やひきずり・はね飛ばされるなどの種々の事故態様がある。とくにエネルギーはきわめて大きく、事故時の車両の遅速で人体の損傷は、轢断、挫滅などさまざまである。
生前轢断死体であっても、轢断部に出血が不著明であることが少なくない。これは、急激な血圧低下および轢断部の血管断端・筋肉の収縮によるものと考えられている。轢断部の組織が圧迫される結果、その近くに追し流された血液によって血管内圧が上昇し、血管が破綻して組織内に出血することがある。この出血は生活反応であると考えられている。轢断の生前・死後の鑑別は非常に困難な場合が多く、可能な限り多くの所見を総合し慎重に検討して鑑別すべきである。
- 2008/09/08(月) |
- 法医学論争
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