事件発生当時、「A新聞」の記者によって末広旅館の主人が共産党員ではないかという根拠のないデマを流されるなど、末広旅館関係者が風評被害に悩んでいたことは
以前のエントリで述べました。
しかし末広旅館叩きは五反野周辺にとどまらず、当時他殺説を展開していた大新聞紙上でもおこなわれていたのです。今回は昭和24年7月20付の朝日新聞「三鷹・下山事件をめぐって」という記者座談会形式の記事の一部を引用します(『下山事件全研究』p136-138でも読むことができます)。
司会 旅館にいったのは替玉だという説もあるね。
Z 今のところではどうも危ないもんだということになっている。
司会 いずれにしても一躍有名になった末広旅館は商売繁盛かな。
Z あれはもともと戦後場末に激増した旅館の一つで、繁盛というわけでもないがあそこのオカミは抜け目がない。取材に行った若い記者に『安くまけますからどうぞよろしく』とのがさず宣伝している。
怪紳士の証言にシドロモドロな点もあったね。はじめはオカミが休んだのは下山さんに違いないとガンバっていたが、テイ主も乗り出し下山説を強調していた。ところがこのテイ主はその紳士に会っていなかった。夫婦で仲良く下山説だ。手のつけようがないね。
この記事を書いた朝日の記者や担当デスクは一体なんのために貴重な紙面(当時は多くて1日4面、朝刊のみ)を割いて、わざわざ「一躍有名になった末広旅館は商売繁盛」とか「あそこのオカミは抜け目がない」といった事件とは直接関係のないことや、「手のつけようがない」と証言者を冷やかし馬鹿にするような文章を書いたのか、管理人としては理解に苦しみます。自らの主張にそぐわない証言をする者は一般市民といえども叩くという方針だったのでしょうか。内容だけ見れば一流紙の記事とは到底思えません。
同日の天声人語では国鉄の被解雇者について、「人の人生のことをそまつに扱ってはいけない」、「積極的に援助の手をさしのべてやらねばならぬ」と弱者の視点に立った立派な意見が述べられていますが、その一方で自ら大新聞の「ペンの力」を弱者に向けていることには気づいていないようです。末広旅館は下山事件を境に商売上がったりの状態に追い込まれましたが(『下山事件全研究』p107、『生体れき断』p93-95)、そうさせたひとつの大きな要因はマスコミ報道だったといって間違いないでしょう。誰もが他殺を直感するような社会情勢のなか、こういった記事が許される雰囲気が新聞社にも大衆にもあったのかもしれませんが、全国紙に書きたてられている末広旅館関係者にとっては恐ろしいことだったに違いありません。結局大きな力の前に彼らは泣き寝入りするしかなかったのです。
- 2008/05/09(金) |
- 末広旅館・五反野周辺
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昭和24年7月15日付の読売新聞には、盗みをはたらいた後の帰りに窃盗犯が轢断現場周辺にさしかかったとき、白いパナマ帽をかぶった男がたたずんでいるのを見て刑事と思い身を隠したが、間もなく轢断列車が通過した(午前0時20分前後)のでその音にまぎれて逃げた、という話が載っています。この記事は『下山事件 最後の証言(増補完全版)』にも紹介されており、柴田哲孝氏はパナマ帽の男たちが犯人グループであろうと推理しています(p375-376)。(※このパナマ帽の男たちは窃盗犯が見たもので、納豆売りの少年の話とはまた別です)
しかし、この読売新聞の記事には目撃時間について間違いがあるようです。雨の降り具合、盗みに入った時刻、窃盗犯自身の証言などを元にすると、轢断地点近くを通ったのは深夜2時頃だったということです(
過去のエントリで簡単に触れた窃盗犯です)。したがって轢断列車が現場を通過したときには、窃盗犯はその場にすらいなかったということになります。深夜2時頃には北千住分区の保線工手三人が死体処理のため現場に到着しており、窃盗犯は彼らを見て警察と勘違いしたものと思われます(『生体れき断』p80-81、『下山事件全研究』p115-116、『資料・下山事件』p377-378)。また、既に彼らよりも先に保線分区長は現場に到着していました(『生体れき断』p81)。もし窃盗犯が見たパナマ帽の男たちが犯人グループだとしたら、そんな時間まで現場には残っていないでしょう。昭和24年7月19日付の読売新聞を始めとする各紙には、パナマ帽の男たちと事件との関連を否定する警視庁の談話が載っていますが、柴田氏はこちらのほうの記事には触れていません。
- 2008/05/09(金) |
- 平成三部作
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