法医学解剖は従来、死因の断定が重要な課題であり、「死後経過時間」の測定は新刑訴訟法の施行により重要性を帯びたもので、従ってまだ研究が始められたばかりの段階である。
この方法として秋谷博士は今度の下山事件に応用したという「アミン(有機アンモニヤ誘導体)の変化」を研究しており自分(中館博士)は「眼圧の変化」金沢医大では「皮下脂肪の酸値」を研究しているが、いずれも着手早々なのでどこまで信頼がおけるかはまだはっきりしておらず、今回の乳酸反応検査は人体では初めてなのでまず参考以上を出ないといえよう。
この測定は法医学のなかでも最も難しい課題で、今までの出血の程度、傷口のあき方、傷の回りの出血、死後硬直の状態を勘で判断する方法以外になかったことに比べれば科学的になったといえるが実情はまだまだである。
出血量の多少も自殺説、他殺説の論拠となっているようだが、自分の経験上の見解では必ずしも飛び込み自殺なら出血が多いとはいえない。
京都の裁判医矢野春利氏が自殺れき死体百四六例を調査した報告でも出血多量ないしやや多量が九パーセント、少量が十六パーセント、極く少量が七〇パーセントとなっているので既死か否かについては出血量に拘でいするわけにはいくまい。
今度の事件には実際タッチしていないので具体的なことはいえぬが、死体の四散とか種々困難な事情があるとしても法医学の立場としては死後経過時間よりも、死因の徹底的究明が行われるべきだと思う。しかしながら現在全犯罪の中、法医学もふくめた科学捜査で解決し得るものがわずか四〜五パーセントであり、犯罪の捜査全体に対しても法医学の占める価値がほぼ一〇パーセントぐらいにしかないことを考えれば、法医学は決して普通捜査に優位するものではなく全捜査の一環として取り上げられるべきものだ。
以上は昭和24年7月10日付の毎日新聞に掲載された、慶応大学法医学教室教授の中館氏のコメントです。この談話が異常なほどの熱気を帯びた法医学論争の端緒となりました。今になって見てみると、秋谷氏の死後経過時間測定法に対する評価や、轢死体の生活反応に関する意見などは中館氏が正しいといえるでしょう。また、佐藤一氏も述べているように、東大批判というよりは法医学に関する一般的見解という性質が強いように思います。しかし、この記事を読んだ古畑氏は討論会をやると言い出し、当時助手だった野中氏に7月30日の法医学緊急理事会の招集をさせました(『下山事件全研究』p206)。
中館氏は「法医学の立場としては死因の究明が第一」という考えですが、東大はこの死因の特定という最も大事なところで非常に苦労し、内部でさえ師弟(古畑氏と桑島氏)に見解の食い違いがあったことは以前のエントリで述べたとおりです。
- 2008/05/03(土) |
- 法医学論争
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