左側のメニューのところにお遊びとして下山事件の自他殺に関するアンケートを設置しました。正直に言いますと、うちのブログはあまり人の来ない寂しいブログなので、どれほど票が入るか分かりませんが、管理人としては興味のあるところです。やはり他殺のほうが投票数はずっと多いだろうと予想しています。もしよろしければ投票してみてください。なお、二重投票はできない設定にしてあります。
- 2008/04/29(火) |
- お知らせ等
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『謀殺 下山事件』で有名な矢田喜美雄氏と交流のあった人たちが集まって纏めた原稿集です。大きく扱われているのは、矢田氏が高飛びの選手として参加したオリンピック、小学校教師時代のエピソード、下山事件関連、南極観測の企画などです。
矢田氏は1913年(大正2年)、山梨県八代群に三男として生まれました。父親は県では有名な教育者でした。矢田氏は小さい頃から運動が得意だったようで、早稲田大学高等師範学校時代にはベルリンオリンピックに走り高跳びの選手として出場し、見事5位入賞を果たしています。写真を見ても痩身でスラリと背が高く(182センチ)、スポーツマンらしい容姿で、実際女性には相当モテたようです。高等師範を卒業後も大学に残って競技を続けたかったらしく、同大学文学部史学科に進みましたが、当時は師範学校出は小学校の教師になる義務があったため、大学に在籍しながら山梨県の小学校で教師として働きました。教育理念は京都大学の木村素衛教授に指導を受け、画一的な没個性教育を否定した型破りな指導を実践しました。この頃の矢田氏は、藤沢桓夫の小説『新雪』の主人公のモデルにもなっています。教え子の親を殴ったりするなど、同僚や校長からは良い評価を受けてはいなかったようですが、子供たちには大変人気があり、彼らはその後「矢田会」という同窓会を作っているほどです。軍歴は記録がはっきりしませんが、1938年に軍隊に入っているようです。その後大阪の済美小学校を経て、1942年に朝日新聞社に入社しています。
朝日新聞入社後は、下山事件を別にすると、南極観測を実現させたのがやはり最も大きな仕事でしょう。矢田氏は朝日新聞社や東大の科学者に働きかけ、当初は実現困難と思われた南極学術探検の案をその類稀なる発想と行動力で現実のものとしていきます。ただ、この文集に寄稿した多くの人が述べているように、矢田氏は極めて魅力的な人物である反面、「はったりが強く」、「クセのある、自己主張の強い人物」で、思い込んだら誰も止められない「暴れ馬」であり(このような矢田氏の姿は複数の寄稿者が述べています)、それが災いして科学者との間に大きな溝を作ってしまい、南極観測プロジェクト自体は実現したものの、結局夢見ていた自身の南極行きは果たせませんでした。朝日新聞の上司や同僚は氏をコントロールするのに大変な苦労をしたようです。しかし、南極観測のような大プロジェクトは、彼のような人物がいなければ決して成功しなかったのは確かでしょう。
朝日新聞が主催したミロのヴィーナス展の際も周囲との軋轢があったそうですが、そのとき矢田氏と周囲との間を取り持ったのが「知る人ぞ知る大原茂男氏だった」、とあります。詳しく書いてありませんが、捜査二課の大原茂男氏(諸永裕司氏の『葬られた夏』などにも出てきています)と矢田氏は昵懇の仲だったと思われるので、同一人物の可能性が高いと思われます。なお、南極観測やミロのヴィーナス展など多くの企画に携わった矢田氏は自他共に認める「朝日新聞に一番、金を使わせた男」でした。何かを思いつき、実行に移す際には周りを巻き込むパワーを持っており、いつも気が付くとその場の主になっているような人物だったようです(下山事件の東大法医学教室でもそれは同じだったと書かれています)。
結婚は同じ朝日新聞社で年上の女性記者としています。最初は色よい返事をもらえなかったようですが、ラブレターを何通も書くなど猛アタックの末めでたくゲットしています。矢田氏は朝日新聞労組委員長を務めたそうですが、奥さんも共に精力的に労組で活躍したといいます。夫婦仲は良く、矢田氏は奥さんに手編みのマフラーをプレゼントするなど、思いやりのある旦那さんだったようです。
上記の事柄以外にも、絵を描いて美術展に入選したり、『謀殺 下山事件』の演劇の脚本を書くというエピソードがあり、多くの才能と引き出し、そして手に負えないほどの(?)パワーに溢れた人物だったといえるのではないかと思います。この本を読む前にも「型破りな人」という印象でしたが、予想以上だったというのが感想です。朝日新聞退社後は東京の明治通り沿いのボウリング場の経営に携わるよう誘われ、4年間そこで常務として勤務しています。苛烈に生きた矢田氏ですが、『謀殺 下山事件』の出版記念会の後には体調を崩しがちになり、奥さんの後を追うようにして1990年にお亡くなりになっています。
ところで当ブログ管理人は、矢田氏の苗字を「やだ」と読んでいましたが、本文献中には「ヤタイズム」「ヤタッペ」「ヤタ・ダンサーズ」などの言葉が複数出てきており、もしかしたら苗字は「やた」と読むのが正しいのかもしれません。ただ、新風舎文庫版『謀殺 下山事件』の著者紹介は「やだ」となっているので、どちらが正しいのかは分かりませんが。
- 2008/04/28(月) |
- 下山事件関連書籍
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轢断地点から北千住方面に向って多数の血痕群が発見されていますが、では轢断地点でのルミノール反応はどうだったのでしょうか。よく言われるように、「轢断時には下山氏の体にはほとんど血液がなかった」のなら、轢断地点には広範囲のルミノール反応は出ないのではないかと考えられます。
このことについては、血痕群発見の立役者である朝日新聞の矢田喜美雄氏が、下山事件研究会のインタビューに対して答えています。矢田氏によると、「また、現場には血液が少なかったとよくいわれますが、しかし、轢断点から進行方向にかけて夜ルミノールをかけてみた結果では一目瞭然で、光の海が帯のように続きました。とくに轢断点の二五米の地点には大量出血地点があります」ということのようです(『資料・下山事件』p511-512)。ただ、矢田氏も上記の証言に続いて述べているように、ルミノールは鋭敏な薬品であるため、その反応から直接的に血液の量について云々することはできません。しかし、列車の進行方向の枕木やバラスを十分に覆うほどの出血は「少なくとも」あったと言えるでしょう。反応が広範囲に渡ったということは、それなりの量もあったのではないでしょうか。
- 2008/04/27(日) |
- 血痕
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轢断現場下手で無数の血痕群が発見されましたが、血痕の形からは進行速度、方向、どの程度の高さから落ちたのかという情報を得ることができます(『血痕分析』p23-24)。下図は『血痕分析』p23の図を改変したものです。上段は静止した人や物から落ちた血痕の形で、右に行くにつれてより高い場所から落ちた場合を示しています。下段は矢印の方向に移動している途中に落ちた血痕の形で、血液が飛んでいく方向に向かって突起が形成されます。移動中に落ちた血痕の形は血液の量や衝撃の大小によって変化します。
『謀殺 下山事件』でも血痕の形を問題にしていますが(新風舎文庫版p170-171)、実際に血痕の血液型検査をした人たちは、そこまで分かるような状態ではなかったと述べているようです(『下山事件全研究』p561)。以前のエントリでも触れたように、血痕が古く、細かい形まで分からなかったのではないかと思われます。ちなみに、他殺の線で捜査をしていた捜査二課二係長、吉武辰男氏は後になってこの血痕群について次のように述べています。「血痕問題ね。騒ぎになったときは、これは大変だと思いましたがね。結局さいごのところで下山さんのとちがっちゃったんですよ。あとで問題となった油とおんなじでした。結局、下山事件というのは、追っても追っても、少しも他殺のにおいのしてこない事件でしたね」(『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』p79)。

- 2008/04/26(土) |
- 血痕
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『戦後ニッポン犯罪史』の下山事件の部分でこの本のことが触れられていたので読んでみました。昭和30年発行の古い文献です。
共同通信社会部次長の松尾義雄氏による「警視庁の内幕」という章で、下山事件自殺発表中止にまつわる警視庁、政府、GHQそれぞれの思惑などが書かれています。共同通信社会部というと、他殺説の斎藤茂男氏を思い出しますが、筆者の松尾氏は自殺だと考えており、「(下山事件は)都合によりハッキリしなかったのだというほかない。ハッキリしなければならない時期に、横槍が入ったためその時期を失ったというのが真相である」と述べています。松尾氏によると、「捜査一課の徹底的な捜査の結果、自殺である可能性が非常に高く、しばらく捜査を継続しても(これは二課の捜査のことだと思います)何も出てこなかった場合には、自殺を警視庁内部の統一的な結論としようということになった。しかし、GHQと、その威をかりた日本政府によって、警視庁が単独で自殺という結論を新聞に発表したり、自殺を断言するのは慎むように条件が付けられた」ということのようです。その後いわゆる「下山白書」が流出し、「自殺説が流布すれば喜ぶのは共産党のみ」とGHQは激怒し、警視総監田中氏や刑事部長坂本氏は叱責され、官房長官増田氏からも吊るし上げられたということです。この一件で捜査一課長堀崎氏らが訓戒処分を受けています。
ちなみに「G・H・Qの奥座敷」という下山事件とは直接関係のない章では、下山事件でもおなじみのウィロビー少将やプリアム大佐の写真があります。下山事件関連文献に名前が出てきているか、当ブログ管理人の記憶が定かではありませんが、その他ではホイットニー少将、マーカット少将、バンカー大佐の写真も見ることができます。

- 2008/04/23(水) |
- 下山事件関連書籍
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今回は
「法医学論争(11) 死後轢断鑑定の妥当性の検討−その2 北大錫谷徹氏による下山事件再考」と
「胸腹部を扁平化する外力」の補足説明です。
『死の法医学』の錫谷氏の説は、成傷体(下山事件の場合列車)と成傷機序を検討しているという点で、古畑氏、中館氏、小宮氏らの考えとは異なっています。錫谷氏によると、成傷体を考慮に入れながら成傷機序を考察するというのは、法医学の鉄則であり基本だそうですが、言われてみると法医学論争に関わった法医学者は、ほとんど死体のみを見ているだけで、誰も成傷体には注意を向けていなかったことが分かります。古畑氏も「肋骨はほとんど圧しつぶされたように折れており、心臓は左胸部から右胸部に転位していた」、「胸部は強く圧迫されて肋骨が折れており」、「お腹も切れて臓器が飛び出している」という死体所見を把握しつつも、成傷体から成傷機序を説明するという試みはしませんでした(『今だから話そう』p216、『資料・下山事件』p208、『犯罪の科学』p64)。
既に以前のエントリで述べたように、錫谷氏の結論は、「轢断時に下山氏は立位であり、胸腹部と台枠前端梁との衝突による心臓離断が死因」というものですが、以前のエントリでは文章のみで列車の構造が分かりにくかったと思います。ですので今回は『死の法医学』の列車の絵を改変して作りました。下図を参考にしてください。赤く塗られているのが下山氏の胸腹部と衝突したと考えられる部分です。身長174センチの下山氏の胸腹部の高さにあります。

- 2008/04/22(火) |
- 法医学論争
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下山氏の所持品のうち、ロイド眼鏡、ネクタイ、喫煙器具などは警察の徹底的な探索によっても発見することはできませんでした(『真実を追う』p89-91、『封印されていた文書 Part1』p426-427)。これらの所持品が現場周辺から見つからなかったことは不自然であると、他殺説の文献では強調されています(『シモヤマ・ケース(文庫版)』p239、『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p98、185、『葬られた夏(文庫版)』p132、156)。ついつい確かにおかしいと思ってしまいがちですが、枕木上の血痕群や下山油などと同じで、これが本当に「不自然」で「特別」なことなのか、ということをまず最初に確認する必要があります(当ブログ管理人の印象では、他殺説の文献ではこのプロセスが抜け落ちている場合が多いように思います)。一般的に鉄道自殺の場合に所持品は全て見つかるものなのか否かを調べれば、それはすぐに確かめられます。
結論から先に述べると、遺体にせよ所持品にせよ、完全に揃うことのほうがむしろ珍しいようです(『下山事件全研究』p495)。実際、下山事件の場合にも、ワイシャツは福島県の平駅で発見されていますし、褌の一部と思われる布片は轢断列車を点検した際に水戸機関区で見つかっています(『刑事一代』p219、『下山事件全研究』p495)。これらは運よく見つかったからよいものの、駅と駅の間の地点で落ちていたならおそらく発見されることは無かったでしょう。錫谷徹氏の『死の法医学』には、轢断死体の顔頭部面右側の軟組織(分かりやすく言うと、顔の右側がお面のように頭蓋骨から剥がれたもの)が列車に付着し、福島県から北海道まで運ばれた例も示されています(p185)。
また、下山事件では完全な現場保存までに4時間を要していて、その間に人に拾われた可能性もあるうえ(『下山事件全研究』p182)、轢断列車を含め、検証までに上り下り9本の列車が通過しており、その風圧で所持品が飛ばされ土手下の水田や池に深く潜ってしまえば、発見することはやはり困難です(『真実を追う』p91)。
なお、余談ですが、煙草関係は全てが見つからなかったのではなく、上着のポケットには未開封のピース一箱、開封済で何本か吸われているピース一箱がそれぞれひとつずつ見つかっています(『生体れき断』p93)。
- 2008/04/21(月) |
- 警察・捜査関係
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昭和27年(1952年)出版の本書は、下山事件のみを扱った文献としては最も古いものです。著者の堂場肇氏は時事新報の記者で、本書は時事新報に連載されたものをまとめたものです。
話をなめらかに運ぶための方便として「茂木博士」という、本書における「唯一の架空人」を登場させ、J君という人物との会話や書簡のやりとりをとおして事実確認や推理をしていますが、あまり適当な方法とは思えませんでした。昔の新聞などを見ると、記者同士が対談形式で下山事件の捜査の経過を説明をしていたりしますが、こういう書簡のやりとりや対談といったスタイルは、当時は今よりもフォーマルな形で多用されていたのかもしれません。
内容は、自殺説と他殺説の両方を紹介していますが、当ブログ管理人が読んだ限り、著者の堂場氏の肩入れ具合は、他殺説8対自殺説2くらいといったところでしょうか。他の文献では、軽くさらっと触れられているだけの成田屋女将MNさんのアリバイについて、かなり多く紙面を割いている点が特徴です。ただ、その後に出版される他殺説の文献に出てこない情報は特に無く、矢田喜美雄氏の『謀殺 下山事件』などのほうが、情報量も多く、推理も興味深いのではないかと思います。この本には、成田屋の外観、千代田銀行私金庫、東大法医学教室の解剖台、5.19下山缶の文字が書いてあった場所、殺人予告の電話の受話器を取った人物など、他の文献に見られない珍しい写真が多数あり、その点非常に面白いです。事実確認に関しては、ややいい加減な印象で、末広旅館に現れた紳士は一本も煙草を吸わなかった、とか機関車の底面にはほとんど油は無かった、といった下山事件関連文献に伝統的(?)に見られるいくつかの間違いがこの本にもあります。
巻末で「茂木博士」は、現場で眼鏡などの総裁の所持品のいくつかが発見されていないこと(犯人が現場に置くのを忘れた)、衣服に染料や油が付着していたこと、線路上に血痕を残していること、死体を列車に轢かせるのは洗練された方法ではない、という理由で、下山事件は巧妙な完全犯罪とは言えず、犯人は殺しのプロなどではなく「ずいぶん間抜けなやつ」であると推測しています(p213)。ただ、犯人が具体的にどういう人物かまでは明言していません。本書では成田屋の女将や、左派勢力などがしばしば言及されていますが、GHQ関与説(事件後の結果としての政治利用ではなく、他殺への関与という意味)は見られず、古い時期の他殺説の対象は、主に女性関係と左派関係に限られていたといえるかもしれません。他殺説は時が経つにつれ、どんどん複雑化している印象があります。
最後に、このブログでしつこく取り上げる問題で申し訳ありませんが、末広旅館の主人NS氏が元警察関係者であることは、この本にも書いてありました(p119-120)。
「平成三部作のこと」、
「諸永裕司氏のこと」、
「末広旅館の主人NS氏」、それと事件関係ブログさんの
「下山事件: 諸永裕司氏のレトリック その2」もご参照ください。なお、今後もし古い資料を調べているうちに同じような情報を見つけたとしても、きりがないのでもうこの話題は取り上げないことにします。……と思ったのですが、おそらくもっとも古いと思われる情報を見つけたので追加します。昭和24年7月の週刊朝日の「下山事件をめぐって」という記事にNS氏が元特高であることが書かれています。つまり、下山氏が亡くなってから一ヶ月もしないうちに活字になり周知の事実となっているということです。この記事にしても『下山事件の謎を解く』にしても、元特高という経歴を警察との癒着という観点では書いていません。それを新事実であるかのように書き、女将による証言との関連でネガティブな意味を付与したのは平成三部作がおそらく初めてだろうと思います。
- 2008/04/20(日) |
- 下山事件関連書籍
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末広旅館の女将NFさんは、ニュース映画に映った組合と会合中の下山氏を見せられ、「顔も体つきも旅館に現れた紳士とよく似ている、私の感じていたことに間違いなかったことがわかって安心した」と語っています(『下山事件全研究』p102、『生体れき断』p99)。このニュース映画を見て感想を語るNFさんの姿が、またニュース映画になったそうで、それを観た評論家の平野謙氏は、非常にリアリティを感じ、NF氏は嘘をついてはいないと考えたといいます(『下山事件全研究』p193)。NFさんが語る姿が収められているのは、「文化ニュース第一二五号」として大映系映画館に配給された「下山事件、依然として謎」というニュース映画らしいのですが(『生体れき断』p97)、現在では観るのは難しいようです。いつかチャンスがあれば観てみたいものです。
※追加で下山氏の映画を見た後のNFさんと映画会社社員との談話を以下に引用します(『生体れき断』p98-99)。NFさんは下山夫人に会って話をしてみたいと言っていたほどだったので、理研映画社という映画会社が下山氏の映画を見せてくるという話を知ると喜んで出かけていったそうです。
問 この映画をごらんになって、あなたのおうちで休まれた紳士と、この映画に出てくる下山総裁は似ているとお考えですか。
答 え、いままで見せていただきましたどの写真よりも、ずっとよく似ておられるような気がいたします。このあたり(眉と鼻のあたりを指して)の感じがとてもよく似ておられます。
問 眉はいかがですか。
答 下がり眉の感じなど、そっくりです。
問 声はどうですか。
答 家においでになったときは、静かな、落ちついた話し方をされましたが、この映画では録音のせいか、音が大きいものですから、どうもはっきりいたしません。それでも全体を通じての感じは、とてもよく似ておられるように思います。
問 あなたはお宅で休まれた方を、下山さんに間違いないように思っておられたようですが、映画をごらんになって、そのお考えにかわりはありませんか。
答 いっそう強く下山さんに違いないといえるような気がいたします。映画を見せていただいて、私の感じていたことに間違いがなかったことがわかって安心いたしました。
- 2008/04/18(金) |
- 末広旅館・五反野周辺
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全部で53のテーマや事件を扱っており、下山事件はそのうちのひとつです。礫川氏は、下山事件の他殺論には諸説あるものの、「事件当初は謀殺説とは即ち左翼勢力による謀殺説を指していた点に注意したい」(p33-34)と述べています。管理者も当時の時代の空気は、国民をして左翼の犯行を直感させるに十分だったように思います。礫川氏の結論は自殺であり、下山事件の謀略とは、事件の後にそれを政治的に利用したことだと述べています。その中には著者が「政治的」(お上に迎合的、という意味)とみなす古畑鑑定も含まれます。
- 2008/04/17(木) |
- 下山事件関連書籍
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以前のエントリ(
「下山家の経済的な困窮」)で、
事件関係ブログの管理人さんに、下山氏に保険金がかけられていた可能性についての非常に面白いコメントをいただきました。そのときには気づきませんでしたが、『資料・下山事件』所収の下山氏の弟T氏の証言によると、当時保険はなにもかけていなかったようです(『資料・下山事件』p574)。警察も早い時期にそれを確認していました。
しかし、昭和25年12月の「女性改造」という雑誌の「下山未亡人の苦悶」という記事によると、遺族には国鉄からの扶助金が出ており、その額は自殺と他殺では違ったようです。
- 2008/04/16(水) |
- 下山事件よしなしごと
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千代田銀行の下山氏の私金庫の中に春画が入っていたという情報は、下山事件関連本ではよく見かけます(『日本の黒い霧 上巻(文庫版)』p57、62、『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p69、『謀殺 下山事件(文庫版)』p71)。堂場肇氏の『下山事件の謎を解く』には、「たいしてうまくもなく、下品なものだった。料理屋の女中にでももらったのであろう」(p30)と、かなり具体的な記述もあります(この本の事実確認はいい加減なところが多く、鵜呑みにしてはならないと考えていますが)。
ところでこの春画についてはまったく逆の情報もあります。私金庫は刑事らの立会いのもと、下山氏の弟T氏が開けましたが、そのT氏は下山事件研究会のインタビューに答えて、「そんなのありません」、「私が開いたんですから」とかなり強く春画の存在を否定しているのです(『資料・下山事件』p572)。捜査上重要ではないと考え省略したのか、それとも本当に無かったのか分かりませんが、下山白書にも千代田銀行の私金庫についての記述はあっても、(当ブログ管理人の読み落としでなければ)春画については何も書かれていません(『資料・下山事件』p301、436)。関口由三氏の『真実を追う』も、現金や家屋登記証、貴金属類が入っていたことしか書いてありません(p71)。
しかし、『生体れき断』の著者、平正一氏は、「あとがき」で本事件に深く関係がないことや故人への配慮から、私金庫の内容には触れなかったと述べており、金庫の中にやはり何かがあったことを示唆しています。下山事件では、ほとんどガセ情報といっていいものが、いかにも真実であるかのように記述されることがしばしばありますが、ではこの春画もその類なのかというと、そう簡単には結論できないようです。「春画」という情報が最も早い時期に出てきた記事や文献はどれなのか、今後調べてみるかもしれません。ただ、事実がどうであれ、平氏が言うように、事件に深く関係するものではないと思います。
いずれにせよ、金庫を開けた実弟のT氏が春画の存在を否定していることは、あまり知られていない事実といえるでしょう。
- 2008/04/16(水) |
- 下山事件よしなしごと
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自殺だとしたらなぜ五反野なのか、自殺する場所としては不自然ではないか、という他殺説からの指摘がありますが、実際には以下のように下山氏には十分な土地鑑があることが捜査によって明らかになりました。
・大学生時代にボートの選手として荒川放水路を上下し、現場付近の地理には明るい。
・昭和5年4月から同年11月15日まで水戸機関庫主任、昭和7年3月から9年7月まで新橋運輸事務局所運転主任、昭和10年5月から11年2月まで東京鉄道局運転課列車係長を歴任し、現場路線と深いつながりがある。
・昭和22年、カサリン台風の際、東京鉄道局局長として現場付近を視察した。また、足立区花畑町のB29墜落現場に進駐軍の軍人を案内している。
・東京鉄道局局長時代には事故の多い地点を巡視するのが慣例となっているので、自殺の名所である現場を知っていたのは間違いない(地元民は「魔のガード下」と呼んでいた。昭和24年7月7日付、朝日新聞)。
・昭和23年、関東行刑管区会合のため東京拘置所に行き、屋上から現場付近一帯を一望した。
・大学生時代から事件前まで(昭和24年4月)、柴又の現場付近の料亭をよく使用していた。
(以上、『刑事一代』p231、『下山事件全研究』p77、89、148-149、153、『資料・下山事件』p469、476、『真実を追う』p92-94、『封印されていた文書 Part1』p440)
なぜあの場所が選ばれたのか、死体運搬の難しさや人目を考えると、自殺説よりも他殺説による説明のほうが困難なのではないでしょうか。もし下山事件が他殺で犯人が殺しのプロならば、死体運搬を見られるかもしれないといった可能性がほぼ確実にゼロになるような場所を選択し、不確定要素は徹底的に排除するはずです。五反野は死体を置く場所としての十分な条件を満たしてはいないように思われます。
- 2008/04/14(月) |
- 末広旅館・五反野周辺
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下山氏が失踪前に精神的にかなり疲弊し動揺していたことを示す証言は数多くあり、それらは既に紹介してきました。ですが、都合のいい情報ばかりを取り上げるという行為は嫌いなので、今回は正反対の証言を。
まずは官房長官の増田氏ですが、失踪前日の7月4日に下山氏と会ったときには、言語動作など全然普段と変わるところはなかった、と述べています(『下山事件全研究』p166-167)。とはいえ、このとき下山氏は「1時から会議がある」と嘘を言って早々に帰ってしまっていることは確かです。また、この後国鉄本社に戻ったときも部下に「首相に会ってきた」と嘘をついています(『資料・下山事件』p434)。
国鉄副総裁加賀山氏も失踪前日の下山氏の行動は不自然ではなく、時間をもてあました結果の暇つぶしであって、当時の態度も毅然としていたと述べています(『下山事件全研究』p168-169)。職員局長牛島辰弥氏も加賀山氏とほぼ同様の証言をしています(『資料・下山事件』p433-434)。
下山氏とは大学時代からの友人で、国鉄の工作局長の島秀雄氏は、「個人的、家庭的悩みを聞いていない」、「7月4日の夜に会ったときも変わった様子はなかった」、「自殺なら遺書くらい残すはず」という理由で自殺には否定的です(昭和24年7月7日付、朝日新聞)。ただ、家庭的悩み、特に金銭的な悩みは下山氏は周りの人間に洩らしていたという情報もあります。
下山夫人は失踪直後の僅かな期間を除いて自殺を否定していることは既に述べましたが(
下山夫人の証言)、子供(息子が4人いますが具体的に誰かは分かりません)は最初から自殺を否定していたようです(『資料・下山事件』p441-442)。下山氏の弟のT氏は、失踪の2週間前に下山氏に会ったときの態度は特にどうということもなかったと述べています。また、T氏は他殺だと考えていて、その理由として解剖で胃の内容物がほとんどなかったというのは胃酸過多の下山氏にしては不自然であること、好きな機関車に飛び込んで自殺するのは考えにくいことを挙げています。ただ、T氏も下山氏が人員整理で相当悩んでいたことは認めています(『資料・下山事件』p567-578)。
上記のうち、増田氏、加賀山氏、職員局長は
以前のエントリで述べたような政治的な意図が相当証言に影響しているのではないかと思われます。多くの証言から当時の下山氏の様子がおかしかったのはほとんど確かで、副総裁の加賀山氏がそれに気づかないばかりか、「態度も毅然としていた」と述べるあたりは、やはり事件の政治的利用を考えてのことと見るのが自然な気がします。なお、牛島辰弥氏が局長を務めていた職員局は下山氏と対立していたという説もあります(『資料・下山事件』p575)。
- 2008/04/13(日) |
- 下山氏の精神状態
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・下山氏を轢断した列車が現場近くを通ったときにけたたましく鳴いた犬の名前は「チン」(『下山総裁怪死事件』p105、『下山事件の謎を解く』の航空写真)。
・下山氏に国鉄総裁就任を頼んだ大屋運輸大臣はタレント大屋政子の旦那さん。
- 2008/04/12(土) |
- 下山事件よしなしごと
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轢断現場周辺に落ちていた下山氏の腕時計のネジを警官が動かしてしまったため、証拠としての価値がなくなってしまったという記述があります(『日本の黒い霧 上巻(文庫版)』p14)。確かにその行動は証拠品の扱いという観点からすると軽率だったかもしれません。しかし、勘違いしてしまいやすいのですが、その警察官は時計の針を動かしたわけではなく、時計の停止時刻(12時19分57秒)を確認したうえで、時計が自然に止まったのか、それとも轢断のショックで止まったのかを知るためにネジを巻いたのです(『下山事件全研究』p84、『生体れき断』p147-148)。したがって、腕時計のネジが警察官によって巻かれたことで失われる情報というのは、「ネジを巻いてから轢断のショックで時計が止まるまで、どれくらいの時間が経っているか」ということです(もちろん、轢断のショックではなく、何者かに暴行されたときに腕時計が壊れて止まった可能性もありますが)。これはネジの巻き具合から大体推測できるようです。ですので、轢断の時間を推測するための証拠としての価値は損なわれていませんし、実際腕時計の停止時刻は、列車の推定通過時刻(12時19分30秒)とほぼ同じでした。ちなみに下山氏は、毎朝決まった時刻にネジを巻いていたそうです(『今だから話そう』p227)。
なお、『下山事件 最後の証言(増補完全版)』では、
「ところがこの警察官がその腕時計の針を動かしてしまった(後に報告)ために、総裁の死亡時刻を推定するための重要な証拠品としての価値がなくなってしまった」とありますが(p98)、警察官は腕時計の針を動かしてはいない、自殺であろうが他殺であろうが腕時計のネジの巻かれ具合と死亡時刻の推定とは直接的な関係はない、という2点において間違っています。
- 2008/04/11(金) |
- 警察・捜査関係
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下山氏の失踪当日の午後1時45分頃、東武線五反野駅の改札に下山氏らしき人物が現れ、駅員に「このあたりに旅館はありませんか?」と尋ねています(『下山事件全研究』p68、71、75、174)。このとき、下山氏ならば持っていたはずの東武鉄道の優待パスを使わず、切符を渡したのは不自然だという他殺説、替え玉説からの指摘があります(『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p130)。
しかし、『生体れき断』の著者、平正一氏は、人員整理に着手し始めたばかりで注目されている下山氏が「運輸省下山定則殿」と明記してあるパスを果たして使用するだろうかと述べています。また、改札口だけでなく、電車内でも検札がおこなわれる可能性も少なくなかったのです(『生体れき断』p88)。
同じく下山氏らしき人物は末広旅館で宿帳への記帳を拒否していますが、替え玉が筆跡を残さないためにそうしたのだ、という解釈があります。しかしやはりこれも、職務を放棄して場末の宿まで来て、頭の隅に自殺を意識しているような状態のときに、著名人である自分の名前を記帳してくれと言われて素直にそうする人はいるのかと考えると疑問です。
五反野駅の改札でパスを使わなかったことや旅館で記帳を断ったことは、他殺説を支持する事実としていろいろな文献で紹介されていますが、自殺説でも合理的な説明が可能なため、自他殺の判断材料にはならないのではないでしょうか。
- 2008/04/10(木) |
- 他殺説
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「失踪前の下山氏の行動」で見たように、7月4日下山氏は東京駅構内の公安局長室に来て国鉄の様子を尋ねています。簡単にしか記されていませんが、佐藤一氏の『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』によると、このとき鉄道公安局長は公安官などの配置状況を図面で説明するなど、あまりに正直に国鉄の様子を話しすぎたと、後の国鉄総裁加賀山氏の逆鱗にふれ、国鉄を追われてしまったのだそうです(p90-91)。
- 2008/04/07(月) |
- 下山事件よしなしごと
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今から40年前、1968年出版の古い文献です。なぜ上巻だけの紹介なのかというと、管理者が上巻しか持っておらず、手に入りずらい下巻も今後読む予定がないからです。まず驚いたのがその厚さで(ページ数586)、ソフトカバーだということを除けば厚さも大きさもちょうど『下山事件全研究』と同じくらいです。東洋書房という出版社は著者の宮川弘氏自身が興した会社だそうで、元警察官であらゆる事件の裏表に通じているという経歴を生かし、「ノンフィクション・スパイシリーズ」として『実録松川事件』、『帝銀事件の謎』、『二・二六事件の真相』、『ケネディ暗殺の謎』といった本も発売予定だったようです。『下山事件の真相』の下巻が出版される前に会社は倒産してしまったらしいのですが、ネットで調べてみると鎌倉芸林という出版社から同じ著者の『下山事件の真相』の第1巻と第2巻が1977年に出ています。おそらく内容は東洋書房のものと同じなんじゃないでしょうか。
本の内容は、下山氏の弟が双子を嫌う風習から母親の知らぬ間に養子に出され、その後も密かに生きており、五反野で死んだのはこの弟のほうだ、というものです。生きているはずの下山氏は何をしているのかは下巻に書かれているのだろうと思います。下山氏の弟は半分ヤクザのような生活をしており、彼に関する部分は任侠ものの小説を読んでいるような気分にさせられます。血液型鑑定がキーワードで、かなりマニアックな血液型の遺伝学の話が出てきますが、そこらへんだけはやけに専門的な内容で、暇なときに寝転びながら読むという感じの本でもなく、しかし、本腰を入れて読んでみようかという気にさせる本でもありません。また、作中の「私」というのが著者の宮川氏なのかどうかも上巻を読む限りよく分かりませんでした。「私」は元警官ということですから宮川氏の経歴と合ってはいるようです。前書きがあればそういう点もすっきりして読み始められたかもしれませんが、この本には前書きがなく、下巻を持っていないため後書きも読むことができませんでした。
序盤に下山氏の司法解剖を担当した元東大講師なる老人が登場しますが、この老人が事件当時東大講師だった桑島氏でないことは確かなようなので、フィクションかと思っていたら途中から実在する人物がどんどん出てきたり、下山白書が収められていたりでノンフィクションぽくなります。『下山事件全研究』や『真実を追う』を読むと、やはりノンフィクションとして売り出されたようです。しかし、双子の弟の存在自体、今では真面目に受け取る人はいないように思います。
- 2008/04/06(日) |
- 下山事件関連書籍
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今回は下山氏自身の自殺を仄めかす言動について見ていきたいと思います。
失踪前の昭和24年6月27日、東京鉄道局長時代の秘書を務めていた女性が東京の下山邸を訪れています。以前よりやつれて元気のない下山氏を気遣う女性に下山氏は「苦労するので白髪も増えた」、「首を切られるのは可哀そうでならん」、「毎日あっちこっちからせめられるので困るよ。俺が整理されたほうがよい」と話しています。そのとき下山夫人は、「(下山氏は)毎晩神経が尖って眠れないので薬を飲んで寝ます」、「毎日顔を見ないうちは心配でならない」と話しており、下山氏の不眠や精神的疲労がかなり深刻であり、夫人も相当不安を感じていたことがうかがわれます。後日、元秘書の女性はその日の下山氏の様子を「元気がなく別人のようだった、人と会うのを嫌っていた」と述べています(『資料・下山事件』p462-463、466、『真実を追う』p231、『生体れき断』p205-206)。下山氏の「俺が整理されたほうがよい」という言葉に自殺の前触れのようなものを感じるのは考えすぎでしょうか。
しかし、下山氏が知人にはっきりと自殺の意を漏らしていたという事実もあります。日本医事新報という医学雑誌(昭和24年8月9日号)に、自殺念慮の強い初老期鬱病のケースが報告されています。この患者は運輸会社の社長で事件直前にも下山氏と親しくしていたそうですが、その頃の下山氏は彼に自殺の意を漏らしていたのだそうです。彼は当時の下山氏の状態が自分の鬱病の症状と全く同じだったと述べています。自殺説を支持する事実として失踪直前の奇行などはよく知られていますが、下山氏自ら自殺を仄めかしていたという重要な事実は見落されがちです(『下山事件全研究』p614-615)。
- 2008/04/05(土) |
- 下山氏の精神状態
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下山氏の精神状態を最もよく理解していると思われる夫人の証言ですが、時間の推移にしたがって内容は変化しています。まず失踪直後から見てみましょう。
吉展ちゃん事件で有名な名刑事、平塚八兵衛氏が下山氏失踪直後に夫人の証言をとっています。そのときは「高木子爵(自殺して当時話題になっていた)のようになるのではないか」、「ひょっとしたら、自殺じゃないかしら。自殺しなければいいんですが…」、「うちの主人は非常にもだえ(苦悩)していたのはたしかです。それでわたしはそういうふう(自殺する)に心配してるんですよ」と述べています(『刑事一代』p217-218、『下山事件全研究』p10、595、『資料・下山事件』p442、『真実を追う』p21、24、『生体れき断』p229)。しかし、その後一両日してから警察が訪ねたときには、「主人は自殺ではありません」と態度を一変させています(『資料・下山事件』p442、『生体れき断』p230)。平成元年7月21日付の毎日新聞は、当時大学生で下山氏と家族ぐるみの付き合いをしていた男性の証言を掲載しています。その男性によると、失踪直前、下山氏は彼に「つくづくイヤになっちゃった。疲れたよ」と話していたそうです。また、6日午後に下山夫人と会った際には「ウチのお父さん、自殺したのよ。息子が今、現場に死体を確認しに行っているけれど、このことは息子にも一切黙っててね」と言われています。このエピソードは
「ニッポンリポート」でより詳しく知ることができます。
こうして見てみると、夫人は失踪直後の非常に短い期間は自殺の可能性を口にしていますが(失踪当日などは、下山邸にやって来た刑事に「そんなこというもんじゃない」と言われるほどでした)、その後自殺に否定的な発言をしていることが分かります。しかし、これも極めて短い期間のみの話で、その後は最後までずっと沈黙を守り続けました。なお、下山家では下山氏の法要を7月5日(自殺ならば6日)におこなっています(『夢追い人よ』p16-17)。
- 2008/04/04(金) |
- 下山氏の精神状態
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技術畑出身者が東京鉄道局長にまで登りつめることは異例で、昭和21年3月に昇格した下山氏もそのポストを最後の椅子だと考えていたようです。事実、その頃鉄道から退く意志があったようで、国鉄の先輩等に就職先の斡旋を頼んだりしています(『資料・下山事件』p453、『生体れき断』p207-208)。しかし、下山氏はついに最後まで鉄道から離れることはできませんでした。
昭和23年4月に伊能繁次郎運輸次官が汚職問題で退陣すると、下山氏は東京鉄道局長から昇進しその後釜に座らされることになりました。技術畑出身で本省局長の経験もない彼が二階級特進で次官に昇格するとは誰も予想しなかったことだといいます。順当にいけばこのポストには加賀山氏がおさまるものと見られていましたが、加賀山氏は伊能氏と同じ派閥に属していたことや、元次官の佐藤栄作氏も加賀山氏の昇格には難色を示したこともあり実現しませんでした。以前から辞めたがっていた下山氏ですが、次官時代もやはり「運輸省には鉄道、海運の両総局長がいて、実権は両者に握られている。次官は浮き上がっている存在だし、部内には種々の内紛もあるので早く辞めてしまいたい」と国鉄の先輩に漏らしていました(『生体れき断』p209)。運輸次官というポストは閑職であったらしく、暇なうえに国鉄の状況に関する情報がまったく入らず、下山氏は相当不満だったようです(『下山事件全研究』p609、『下山総裁の追憶』p289-291、300-303)。また、当時の運輸省には「堀木閥」という勢力がありましたが(中心の堀木鎌三氏は昭和21に鉄道総局長を最後に運輸省を去り、鉄道弘済会の理事長に。その後参院当選2回、厚生大臣も勤める)、技術系の下山氏とその周辺の人たちは堀木閥にとっては面白くない存在だったようで、彼らとの間に摩擦もあったものと思われます。ちなみに加賀山氏は堀木閥の最右翼でした(『生体れき断』p208-209)。この時期、知人には「役人生活はつくづく嫌になったがやめさせてくれないから」と漏らしており、下山氏の退陣の意思は更に強まったものと思われます(『資料・下山事件』p356、452、457、468、473、477、483)。
ところがまたもや自らの思惑とは関係なく、今度は初代国鉄総裁、しかも大量首切りという辛い任務を伴った大変な役がまわってきます。当初は財界の有力者を引き抜いて総裁にすえる予定でしたが、結局誰も引き受けようとはせず、国鉄の加賀山氏も人員整理の貧乏くじを引くことはない、早まるべきではないと周囲から進言されてとどまったようです。人選が行き詰まり困り果てた大屋晋三運輸大臣は、国鉄発足わずか一週間前になって下山氏に白羽の矢をたてました。国鉄から離れたがっていた下山氏ですが、困り果てた大屋氏の立場を察し、やむなく引き受けた総裁の椅子でした(『資料・下山事件』p434、458、461、465、468、471、481)。次官は辞めるつもりだ、二階に上げられてハシゴをはずされた、と知人に話をした数日後のことです(『生体れき断』p211)。
『下山事件全研究』の著者、佐藤一氏は、下山氏が運輸次官時代に加賀山氏らとともに国鉄発足のための機構、人的配置の立案などに参加していればその後の状況は違っていたかもしれないと述べています(『下山事件全研究』p611)。しかしながら次官時代にはただ外から眺める立場にあり、人とのつながりを持たなかった下山氏は総裁就任後、堀木閥の加賀山体制のなかで孤立していったものと思われます。下山氏が技術系と事務系の関係に悩んでいた節があること、一日も早く苦境から逃れ参院選に出ることのみを頼みにしてようやく生きることに耐えていたようだったと当時の知人は語っています(『資料・下山事件』p472、『生体れき断』p216)。
平正一氏は、国鉄内部で有力な派閥に属さず孤立気味であったこと、共産党に狙われる恐怖、大量首切りに伴う良心の呵責などが下山氏をじわじわと追い詰め、そして7月4日の国鉄内部での打ち合わせが下山氏の心に決定的な打撃を与え、その後の不可解な行動(
「失踪前の下山氏の行動」)につながったのではないかと考えています。7月4日午前中の会議で、第一次整理発表後の労組からの抗議が予想されたため、国鉄幹部は下山氏に国鉄本社からの退出を促しました。下山氏はテーブルを叩いて「ぼくは外には出ない、徹夜してもここで頑張るんだ」と拒否しましたが、各局長は最終的には彼を退出させています(表現の問題で、実際のニュアンスは分かりませんが、『資料・下山事件』p460によると職員局長は下山氏に「あんたは外に出ていてもらえばよい」と言ったようです)。局長たちには下山氏を疎外しているつもりはなかったかもしれませんが、激しながら拒否した下山氏の意に反してまで退出させた意図は理解しがたいものがありますし、部下一同にそういう対応をされた下山氏の心境はどうだったのでしょう(『生体れき断』p218-219)。
以上、東京鉄道局長時代からの下山氏の職場での立場を見てきましたが、退陣の意思や派閥の問題からくる懊悩は国鉄総裁に就任してから始まったものではなく、
前回のエントリで触れた経済問題とともに下山氏の心に長い間暗い影を落としていたと考えてよいと思います。
ちなみに、国鉄労働組合本社支部書記長によると、下山氏失踪後の7月5日から6日朝にかけての国鉄本社局長会議室で局長たちは自殺を示唆していたということです。総裁失踪後、国鉄内部が混乱を極めていたので、当局側に気づかれずに局長会議室の様子を知ることが出来たようです。この情報をもとに労組は早くも6日早朝に「下山総裁は自殺」という壁新聞を国鉄本社玄関に貼りだしましたが、あまりに時期が早かったため疑惑の目で見られたというエピソードもあります(『下山事件全研究』p30、595)。
- 2008/04/03(木) |
- 下山氏の精神状態
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この話題もやはりおなじみかもしれませんが、とりあえず。
下山夫人の実家は裕福で、そこから援助を受けながら下山家は女中を二人雇ってかなり豪奢な生活をしていた時期もあったようです。しかし終戦の年になって夫人の実家が戦災にあい、その後夫人の父親が病没すると今度は逆に母親を扶養しなければならない状況になってしまいました。大学在学中の長男と次男、高校の三男、中学の四男の4人の子供も養わなければならず、豊かな生活から一転、毎月約1万円の赤字が出るようになり(昭和24年の大卒の銀行初任給は3000円とのこと)、運輸次官、国鉄総裁という高い地位に似合わず、株、衣類、じゅうたんなどを売りながらの苦しい生活だったようです。実際知人には生活が苦しいと漏らしていました(『資料・下山事件』p483)。待遇のいい私鉄への転職や参議院選出馬を考えていたのもこの経済状況が大きく関係していると思われます(『下山事件全研究』p170、610、『生体れき断』p203-204)。
センセーショナルに報道されて様々な憶測が飛びかった下山事件の結論が自殺で、その原因のひとつが経済的困窮だったかもしれない、というのはあまりにも地味すぎて満足する人はいないかもしれませんが、事実は単純である可能性も十分にあるのではないかと思ったりもします。
- 2008/04/02(水) |
- 下山氏の精神状態
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自殺か他殺かは別として、事件発生後にそれを最大限に利用した、もしくはしようとした人がいたのは確かでしょう。増田甲子七官房長官と加賀山之雄国鉄副総裁(後に総裁)もそういった人たちのなかに含まれるといってもいいかもしれません。
増田氏は7月6日正午の記者会見で「ひかれる前に死んでいたとの見方が強い」と、八十島監察医による「轢死」というのが唯一の科学的判定であった時期にそれを無視し、他殺の可能性を示唆する声明をしています(『下山事件全研究』p17)。(ちなみに松川事件のときも同様に、事件の翌日、まだほとんど何も明らかになっていない状態で増田氏は「三鷹事件をはじめ、その他の各事件と思想的底流においては同じ」と発言しています。『松川事件 謎の累積』p12)その後も増田氏は、自殺の線の記事が多い毎日新聞の記者(若月五朗氏と今井太久弥氏)を首相官邸に呼び、「国鉄の大量首きりによる労働攻勢のはげしいおり、あなた方のいうように下山さんが自殺だったとしたら、この左翼勢力はどうなりましょう」、「終戦後四年、やっとインフレを克服して、国民生活が安定しかけたとき、あなた方の報道で左翼攻勢の突破口を与え、国民生活を再び混乱におとしいれたら、あなたの新聞の責任は大きいと思いますがね」、「これが自殺だなんていうことになったら、せっかくここまで来た日本が元に戻ってしまうではないか」と述べたといいます。「真実に耐えられないような国民が復興できるはずがありませんよ」と今井氏が答えると、「君ね、やはり祖国というものは復興させなきゃならんのだから」と、両者の話し合いは最後まで平行線のままで打ち切りになりました。(『資料・下山事件』p561、『生体れき断』p127-128、『毎日新聞社会部』p21-22、「下山国鉄総裁は自殺だった」中央公論1986年4月号)。毎日新聞の平正一氏は増田氏の発言をして「恐るべき論理」、「恐るべき権力主義的な考え方」と評しています(『生体れき断』p128)。増田氏とまったく同じような「これが自殺ということで、日本の将来はどうなるか」という言葉は、加賀山氏の口から発せられています(『生体れき断』p122)。これらの発言は彼らの立場と、戦後間もない大変な時代でレッドパージも盛んだったという背景も併せて考える必要があるかと思います。
この二人はそのほかの点でも似ていて、例えば捜査の報告に訪れた警視庁の坂本智元刑事部長に対して「もういいから帰れ。オレが、県の警察部長をやった経験から、アレは他殺に絶対まちがいない」と増田氏が激怒したかと思えば、加賀山氏は捜査一課長の堀崎氏に喰ってかかったり、自殺という結論では責任回避ではないかと警視総監の田中氏をなじったりしています(『下山事件全研究』p189、『資料・下山事件』p525、531)。増田氏は事件から10年後、「素人判断だが、他殺だったと思う」と述べています(『「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流130年』p82)。
※関連した内容は
「事件直後の政府高官の発言」をご参照ください。
- 2008/04/01(火) |
- 政府・GHQ関係
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