安部譲二氏の父親は下山氏と大学時代に同期で親友だったとのことですが、下山氏の自殺説を知ると、「馬鹿な、そんなことを下山がするもんか」「下山が自分の仕事場で、自殺なんかするもんか」「下山はあんな旅館でやすんだりするもんか」と眼に涙を浮かべながら激したといいます。この本の下山事件に関するオリジナルな情報は上記の「安部氏の父親が、下山氏は自殺するような人間ではないと思った」という以外には何もありません。そのほかの部分は矢田喜美雄氏や松本清張氏の他殺説をほとんどそのまま紹介しているだけです。最後に下山氏の誘拐から凄惨なリンチ殺害、そして轢断に至るまでのやけにリアルな描写がありますが(下山氏がセリフを吐いたりしています)、特にリンチ殺害のシーンは読んでいていい気分はしませんでした。他殺説を主張するのにこの描写が必要だったとは思えません。
- 2008/03/10(月) |
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錫谷徹氏は『死の法医学 下山事件再考』の「下山事件の反省」という部分で、下山事件発生当時東大総長だった南原繁氏の以下の言葉を引用しています。
古畑教授(法医学主任)と秋谷教授(裁判化学主任)は、しばしば総長室に見えて、その経過を語られたが、東大医学部の結論は『死後轢断』、すなわち他殺を意味するものであった。その間、慶応の中館教授の部分的に東大と異なる見解に基づく、自殺説に有利な発表がなされた。私は、いずれの大学であれ、日本の法医学界のために、この重大な事件に対して、ひたすら期待し、激励もしたのであった。(下山事件研究会編 『資料・下山事件』(みすず書房) 序文iii-iv)
一見もっともな意見ですが、錫谷氏は医師の秘密保持の義務の観点から、南原総長への法医鑑定の経過報告という行為に違和感を示しています(p263-265)。また、東大とも医学とも無関係、しかも秘密の洩れやすい新聞記者という身分の矢田喜美雄氏が法医学教室に自由に出入りするだけでなく、鑑定の手伝いまでしていたという事実にも言及しています。これは当然学内で問題になったそうですが、南原総長の一声で公認になったといいます。錫谷氏は東大内部からの批判があったいう事実から、当時の東大全体の雰囲気が特殊だったのではなく、問題は古畑教授と南原総長の個人的特殊性にあったのだろうと述べています。『語りつぐ昭和史』(朝日新聞社)の矢田氏自身の回想によると(p206)、東大で研究生扱いになってからは「政府から小遣い程度の月給」も出ていたといいますから、やはり非常に特殊な状況になっていたことが分かります。
佐藤一氏の『一九四九年「謀略」の夏』(時事通信社)によると、矢田氏は実際の鑑定作業で特に活躍することはありませんでしたが(これは素人なので当然です)、労力提供、現場移動の際の朝日新聞社の自動車利用、大量に消費した薬品類の購入資金調達での貢献は抜群であったそうです(p266)。
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