下山事件自殺説紹介ブログ

他殺説に比べ情報が手に入りにくい自殺説の紹介をします。

下山氏の病歴

運転局人事係をやっていた当時、神経衰弱に罹ったことがある。(『資料・下山事件』p316)

北海道釧路の鉄道に勤めていた頃、宴会の席で酒を飲んで吐血し入院した。(『資料・下山事件』p428)

昭和10年頃、下山氏は神経衰弱による不眠からカルモチンを飲みすぎ、3週間ほど入院したことがあった。このときの病名は胃腸疾患であったが、自殺未遂などのときはそんな病名をつけるのが慣例であった。医師によってはカルモチンの飲みすぎは自殺未遂とみなす。これが自殺未遂なのか、間違えて薬を飲みすぎたのかは定かではないが、当時の新聞には「自殺を図った」と載った模様。(『下山事件全研究』p181、607‐608、『下山総裁怪死事件』p76-77、『資料・下山事件』p302)

昭和17年、技術院課長時代に疲労からくる胃潰瘍で約一ヶ月入院。(『下山事件全研究』p608、『資料・下山事件』p302、473)

昭和24年6月には東京鉄道病院に計5回通い、疲労回復のためのビタミン・ブドウ糖注射や、胃薬、睡眠薬(ブロバリン)を処方されている。(『下山事件全研究』p605、『資料・下山事件』p304)



 下山氏は幼い頃から胃酸過多で悩み、職を得てからも仕事がうまくいかなかったりして悩むと胃を悪くしたようです。昭和24年6月には鉄道病院で何度も睡眠薬のブロバリンを処方されていますが、普通0.3グラム入り一包みで十分で、不眠が酷くなってくると0.5グラムくらい必要になるようです。処方された薬の量を見てみると、下山氏は6月末には1日1グラムを飲んでいた計算になります(『刑事一代』p225-226、『真実を追う』p231、『生体轢断』p204)。「下山白書」などには載っていないので確定的な事実か分かりませんが、7月4日にもカルモチン25g(致死量は8g)を処方してもらっていたという毎日新聞の記事もあります(『下山事件全研究』p181、『資料・下山事件』p76-77)。
  1. 2008/03/31(月) |
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失踪前の下山氏の行動

 おなじみのものが多いとは思いますが、失踪前に下山氏の精神が動揺していたことを示唆する事実を列挙します。


田中警視庁総監に「従業員の妻君や子供たちから何十通となく手紙が来るんだ。とても気のどくで、最後まで読む気がしないんだ」と悩みを打ち明け、その後、官邸の廊下で田中氏に会った時も、眼に涙を浮かべて「弱ったよ」と語っていた。(『資料・下山事件』p496)

「このごろは眠れなくて困る」といい睡眠剤を常用していた。毎日多数の反対の嘆願状や脅迫状などが配達されてかなり神経は高ぶっていた。(『資料・下山事件』p52)

整理問題が進んで来るにつれて憔悴するようになって来た。(『資料・下山事件』p314)

日ごろ几帳面に書き込まれていた手帳は6月28日の「エーミスに叱られる 決裂のチャンスをつかめといわれた」というやや斜めの乱れた文字を最後に、それ以降は白紙。28日には民政部労働課長エーミスに人員整理の遅れを相当こっぴどく叱責された模様。(『下山事件全研究』p597、『真実を追う』p232)

失踪1週間ほど前の国鉄本社内での会議中にアイスキャンディーがが配られた。下山氏はその溶けかかったアイスキャンディーを「…に持って帰ってやるんだよ」と小さく呟きながら上着のポケットの中に入れた。誰の名か聞き取れなかったが、その場にいた国鉄幹部たちはその行為に唖然とした。(『封印されていた文書 Part1』p435)

失踪2、3日前に寄った料亭ではちょっとした音にも驚いたり、少し食べては考え込んだりで様子が普通ではなく、女中は女将に「あの人から目を離さぬように」と言われるほどだった。(『真実を追う』p232-233、『生体れき断』p220)

7月2日の交渉に出席した組合員は、下山氏が何かに怯えているように落ち着きのない態度だったと述べている。(『下山事件全研究』p596、『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』p96)

7月2日には増田甲子七官房長官に整理予定者について虚偽の報告をする。(『下山事件全研究』p606、『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』p96-97、『生体れき断』p213-214)

7月3日の人員整理の打ち合わせ会議のときも態度がいつもとは違い、国鉄幹部同士で「総裁を少し休ませなければ」と話し合った。(『真実を追う』p234)

会議の席上で手が震えるためコーヒー茶わんを両手で持った。(『資料・下山事件』p52)

7月4日(失踪前日)の行動
・12時少し過ぎ、首相官邸の増田甲子七官房長官の元を訪れた後、二人で吉田首相に行くも会議があるという嘘の理由で会わずに帰る(国鉄に帰った際は、幹部に「首相に会ってきた」と嘘をつく)。
・14時前頃人事院に来るも誰とも会わずに帰る。
・15時前に国鉄本社に戻るもすぐにまた出る。
・来客と会談中だった警視総監田中栄一氏ととりとめのない会話をして5、6分で帰る。
・15時半頃法務庁柳川氏を訪問し、いきなり電話を借りてから5、6分雑談して帰る。
・16時頃、再び首相官邸に赴くもおそらく誰とも会わずに出る。
・17時過ぎレールウェイ・クラブに来て、運輸局保安課長から団体交渉や整理状況の報告をされても、いつもは数字等に細かいのに何も言わず、普段と様子が違った。
・東京駅構内の鉄道公安局長室では、お茶はいらないと言いながらも公安局長のお茶(局長が既に口を付けていた)を飲んでしまったり、アイスクリームもいらないと断っておきながら、少しの間席を立っていて不在だった職員のテーブルに置いてあったアイスクリームをボタボタと服にこぼしつつ食べてしまった。その後新聞を読みながら、知っているはずの国鉄人員整理の記事を見て驚く。
・レールウェイクラブに戻るがすぐ本社に向かい、またすぐに戻ってくる。7時過ぎに夕食をとった後8時に本社に帰り、10時前に帰宅するため車で出る。
(『下山事件全研究』p38-39、80-83、597、606、『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』p89-92、『資料・下山事件』p306、307、308、434、『真実を追う』p234-241、『生体れき断』p49、220-225)

7月5日の失踪直前の専属運転手への不可解な運転指示。
(『下山事件全研究』、『資料・下山事件』、『真実を追う』、『生体れき断』)


なお、事件後、直属の上司だった大屋運輸大臣は「あれは自殺だよ」と述べています(『増田甲子七回想録 吉田時代と私』p141)。
  1. 2008/03/30(日) |
  2. 下山氏の精神状態
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胸腹部を扁平化する外力

 今回は「法医学論争(11) 死後轢断鑑定の妥当性の検討−その2 北大錫谷徹氏による下山事件再考」の補足説明です。

 なぜ胸腹部の受傷から、「立位で機関車と衝突した」という結論に結びつくのかということですが、まず、線路上に横たわっていたと仮定すると、列車の底部で地面と最も近い部分で31センチメートルなので、それ以下になるまで胸腹部が圧迫されることはありません(下山氏の胸腹部の直径は30センチかそれ以下と考えられます)。列車の底部と地面との間で、細かく弾むようにして引きずられていったとしても、身体と列車は同方向に進んでいるので、衝突の力は小さいうえ、胸腹部を扁平化するほど広く突出している構造物は、列車の底部にはありません。車輪に巻き込まれた場合も、轢過を伴わずに胸腹部が強烈に圧迫されるということは考えられません。したがって、横たわっていた状態では胸腹部の受傷の説明がつかないのです。

 次に立位だったと仮定すると、身長174センチの下山氏の胸腹部に相当する高さのところに、台枠前端梁という胸腹部の大部分を覆う面積の平面な構造物があり、列車の構造から見ても矛盾がないうえ、列車に正面から衝突することにより凄まじい力が加えられるはずなので、胸腹部が扁平化し心臓が血管から離断して転位しているという重大な受傷も説明がつきます。このような場合にはほぼ衝突の瞬間に心臓離断が生じ循環機能の停止が起きていると考えられるため、生活反応の欠如も当然だといえるでしょう。下山氏の死体を初めて見た医師の八十島氏も、背骨が粉砕されているという所見から、立位で列車と衝突したのだろうと後になって述べています。『死の法医学』の図を改変して下の図を作ったので参考にしてください。赤い矢印は衝撃の大きさと考えてください。「310」というのは、地面から列車の最低部までの距離です(単位mm)。

STHP

胸腹部を扁平化させるような衝撃は立位で列車前面と衝突しなければ生じない(左:立位、右:仰臥位もしくは伏臥位)


「轢断列車と成傷機序」もご参照ください。
  1. 2008/03/29(土) |
  2. 法医学論争
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『法医学のミステリー(文庫版)』 渡辺孚(著) 中央公論社

 下山事件関連の内容は「アンザッツ・ブルートゥング」で触れたので今回はそれ以外の内容を。

 この本では著者が実際に鑑定に関わった事件を含む様々な興味深い事例から、父親は誰かといった話題まで分かり易い言葉で書かれています。著者の考えは、法医学は死因の究明に専心すべきで、血液型鑑定を含む様々な検査は専門機関の検査官が当たるように変わっていくべきだというものです。また、学生時代に古畑氏に国家医学についてどう思うかと訊かれ(国家医学は公衆衛生学と法医学を合わせた概念で、古畑氏は著書等でよく言及していたようです)、権力に迎合する危険性を率直に述べたら激怒されたりしたときのことなど、いろいろと面白いエピソードも知ることができます。
  1. 2008/03/26(水) |
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解剖に立ち会っていないと意見できない?

 『「藪の中」の死体』のなかで上野正彦氏は、公表されたデータについて第三者が考察や評論をすることは自由であり、規制することはできないし、執刀医はそれらに左右されず、自分の意見を述べればよい、と述べています。これは法医学が自然科学の一分野であることを考えれば、当然だと思われます。特に下山事件のような重大なケースではそうでしょうし、外野から何か言われるのは不可避といってもよかったのかもしれません。また、もし解剖に立ち会わずに意見すること自体が間違ったことならば、古畑氏は中館氏だけでなく、解剖を見ずに他殺説を支持しつつも窒息死説を唱えた法医学者に対しても同様に批判すべきだったのではないでしょうか。問題だったのは、中館氏が発言したこと自体やその内容ではなく、新聞の三面記事で意見を述べたことなのかもしれません(とはいえ、批判というよりは一般論的な内容ですが)。もし新聞ではなく学術雑誌であったならば、法医学論争は感情的なやり取りを伴わなかった可能性もあります。結果的に東大法医が批判に対して十分に反論できたのかという最も重要な点に関しては、後の法医学者の評価は否定的といってよいでしょう(「アンザッツ・ブルートゥング」)。

 話は変わりますが、下山事件は裁判になっていないとはいえ、司法解剖の結果についてはかなり詳細に知ることができます。下山氏の死体が発見されたその月の30日には既に日本法医学会臨時評議員会として設けられ、桑島氏は相当詳しく解剖所見を発表していますし、その1ヵ月後の8月30日には衆議院法務委員会で古畑氏らはそれぞれの立場からの意見を表明しています。昭和39年の法務委員会では鑑定書の要約が配布されています(正式の鑑定書自体も便箋2枚ほどでそれほど長くはないようです。中央公論、1986年4月)。また、『資料・下山事件』にはその鑑定書の要約も収められており、そのほかにも下山事件研究会でのかなり詳しい桑島氏の証言がありますし、完全にとはいかないまでも、鑑定内容は半ば公となっているといってもいいのではないかと思います。事実、『死の法医学』の著者、錫谷徹氏は「法医学的考察にはほとんど事欠かない」と述べています(p221)。
  1. 2008/03/25(火) |
  2. 法医学論争
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東武伊勢崎線

 柴田哲孝氏は『下山事件 最後の証言』で、亜細亜産業が自由に使えたはずだという東武伊勢崎線の列車から下山氏の死体が投下された可能性を指摘しています(増補完全版p378)。そしてその場合には、死体が運び込まれたのは北千住か五反野、もしくは小菅だろうと推理しています(p382)。
 
 柴田氏はなぜか言及していませんが、下山白書に東武伊勢崎線の現場通過時刻についての情報があるので見てみると(『資料・下山事件』p425)、下り列車で一番遅い時間にガードを通過した列車が午後9時49分となっていますから、少し早すぎると考えられます。上り列車は午後11時から11時47分の最終電車までに計6本の列車が現場を通過しているので、もし死体運搬に使われたのだとしたら上り列車ではないでしょうか。とはいえこれらは普通列車なので、死体の運搬や投下が可能なのかというと疑問な気もします。警察が東武伊勢崎線の列車の現場通過時間や運転者、車掌の氏名を把握していたということは、ある程度調べてシロと判断したんじゃないでしょうか。

 実際、7月21日の第1回目の公式発表では、堀崎捜査一課長が、東武線列車も調べたが特に新事実はなかったと述べています。また、下山氏がまず最初に東武線列車にはねられ、その後落下してまた国鉄の列車に轢断された可能性も警察は考えていたようで、東武線列車を捜査の対象外に置いてはいませんでした(『下山事件全研究』p152、184)。下山白書にも東武線列車やその乗務員を調べた結果、「発見列車、轢断列車以外に死体を運搬して現場に降したと思われる電車、貨物列車は乗務員駅員其他関係者の取調べにより事実発見されない」と記されています(『資料・下山事件』p378-379)。
  1. 2008/03/24(月) |
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『法医学は考える』 赤石英(著) 講談社

 著者の赤石英氏は本書が出版された当時東北大学法医学教室教授でした。『下山事件全研究』の著者、佐藤一氏もインタビューしている人です(法医学論争(10) 死後轢断鑑定の妥当性の検討その1 佐藤一氏からの反論)。赤石氏は、生体轢断でも生活反応を欠く場合があることを主張していました。

 本書には轢死に関する法医学的記述はありませんが、関連した部分はあります。例えば佐分利駐支公使変死事件について、法医学的にはかなりの精度で自殺と断定されていたにもかかわらず他殺説を主張する松本清張氏を批判して、フィクションなのかノンフィクションなのか区別がつかないような印象を人々に与えることは問題ではないかと述べています(p63-68)。また、「あとがき」では明言はしていないものの、おそらく下山事件であろうという事例にも次のように言及しています(p204)。

 第二次世界大戦後の某事件でもそうでしたように、ある新聞社のデスクが、それは他殺なんだろうと考えますと、後からどんな事実が出てこようが、そんなものは無視して、何がなんでも、他殺の線で押し通すなどということは、少なくとも先進国ではないことで、新聞は公器ではなく、“私器”なのかと疑いたくなります。

  1. 2008/03/23(日) |
  2. 下山事件関連書籍
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矢田喜美雄氏と平正一氏

 紹介するまでもないかもしれませんが、矢田喜美雄氏は朝日新聞社会部の記者でした。大学の競争部時代にはベルリンオリンピックに走り高跳びの選手として出場し、見事5位入賞を果たしています。『夢追い人よ』の著者、斉藤茂男氏によると矢田氏はとにかく明るくパワフルだったようで、南極観測隊派遣を実現させたり、シルクロード踏査行やミロのヴィーナスの日本展のプロモーターになるなど、新聞記者という枠にはまらない人物だったようです。新聞労連が組織した朝日労組支援デモのときも、米軍払い下げの戦闘帽、野戦服、軍靴で宣伝カーの上で強烈なアジ演説をしたとのこと。下山事件に関する活躍だけを見ても、並外れたパワーをもった人だと分かりますし、東大法医学教室に特別研究生として出入りするなど、やはり新聞記者という枠に収まり切っていないという印象です。その型破りな人柄から、藤沢桓夫の小説『新雪』の主人公のモデルにもなっています。著書の『謀殺 下山事件』は松本清張氏の『日本の黒い霧』と並んで、下山事件関連文献のなかではもっとも多くの人に読まれているのではないでしょうか。

 平正一氏は下山事件を担当した毎日新聞社会部の記者です。「事件に強く、見込みで記事を書かないという信条の持ち主」で「予断をも持たず、冷静に事実を積み上げて報道する姿勢に徹していた」そうです(『毎日新聞社会部』p14)。「根拠薄弱な、流言に類するものを他殺の資料として報道することは、われわれの記者的良心が許さなかった」、「推理は空想ではない。一定の事実に基づいて、その上に発展し、構成されたものでなければならない。もし基礎事実を無視して、その上に構成されたものであっては、蜃気楼にすぎない」という言葉にもよく平氏の姿勢が表れているように思います(『生体れき断』p59、122)。下山事件の報道に関しては読者から非難の投書が届いたり、「科学を軽視している」と朝日・読売両新聞から批判され、また社内からも共産党の手先ではないのかと社会部に対する批判の声が上がるなか、結果的に大誤報となってしまった警視庁の自殺発表記事(昭和24年8月3日付の1面トップに「下山事件近く結論発表」「特捜本部、自殺と断定」「きょう合同会議」と5段見出しの特大記事を掲載)によって彼らは決定的に孤立無援となりました。この後、懲罰人事で下山事件取材班はバラバラとなり、平氏にも熊本支局長とする辞令が出されました(約10年後東京本社地方部長として復帰)。社会部の若月五朗記者の送別会には当時の警視総監、田中栄一氏が訪れ、制服のまま頭を畳にすりつけ「どうか、お察しください」と平伏し動かなかったそうです。このときの下山事件報道を題材とした井上靖の小説『黒い潮』では、平氏は主人公速水記者のモデルになっています。昭和34年に毎日新聞社を退社した後もライフワークとして下山事件の取材を続け、昭和39年(1964年)には取材と考察の集大成『生体れき断』を上梓していますが、それからあまり時を経ず昭和42年1月にお亡くなりになっています。

それぞれ著書を読んでみると……お互い仲悪そうです…。


※矢田喜美雄氏については、「翔んだ男 矢田喜美雄」もご参照ください。


【参考文献】
斉藤茂男著 『夢追い人よ』(築地書館)
平正一著 『生体れき断』(毎日学生出版社)
毎日新聞社編 『「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流130年』(毎日新聞社)
毎日新聞社編 『20世紀事件史 歴史の現場』(毎日新聞社)
矢田喜美雄著 『謀殺 下山事件(文庫版)』(新風舎)
山本祐司著 『毎日新聞社会部』(河出書房新社)
  1. 2008/03/22(土) |
  2. 報道関係
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『「藪の中」の死体』 上野正彦(著) 新潮社

 管理者が『「藪の中」の死体』の下山事件関連の章を読んで思うのは、著者が資料収集をちゃんとしていないのではないかということです。「法医学的に分析しようとする私にとっては、少しでも死体所見などの医学的情報が欲しいのである」と資料不足を嘆いていますが、法医学に関して参考にしたのはどうやら矢田氏の『謀殺 下山事件』と、古畑氏の『今だから話そう』だけのようです。少なくとも解剖所見をある程度詳しく紹介している『下山事件全研究』、『資料・下山事件』、さらに上野氏の同業者である法医学者の錫谷徹氏が書いた『死の法医学』を読んでいないことは確かなように思われます。上野氏の結論が他殺なのは「法医学論争(12) 死後轢断鑑定の妥当性の検討−その3 現代の法医学から見た下山事件」で述べたとおりですが、線路上に謎の血痕が多数あった、犯人がそんな手の込んだことをするはずがない、という理由で失血死説は否定しています。理由がこのふたつだけなのを見ても、『資料・下山事件』等の資料にあたっていないらしいのが分かります。それに加えこの本は下山事件そのものの紹介部分がとても多く(李中煥、5.19下山缶、目撃情報、怪電話、下山氏の失踪直前の奇行、などなど)、法医学に絞った考察を期待していた管理者としてはがっかりさせられました。
  1. 2008/03/21(金) |
  2. 下山事件関連書籍
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彼らを黙らせろ これは自殺ではない

Col. P????
This is bad publicity.
Can't you shut them
up. This thing was
no suicide.
         PSB

Memo


「プリアム大佐 これは悪い報道だ。彼らを黙らせろ。これは自殺ではない」
 これはGHQ参謀第二部(G2)の民間諜報課長、ブラッドン大佐がウィロビー少将から受け取った書類の余白に書いた文章だそうです。プリアム大佐宛のメモですが、名前の綴りは走り書きなので読めません(Puliamか?)。1986年2月26日付の毎日新聞に載っています。
  1. 2008/03/19(水) |
  2. 政府・GHQ関係
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ロープ小屋は犯人らに使われたのか?

 下山氏の死体が一時的に置かれた、または下山氏の死体を轢断現場に置いた後犯人たちが休憩した、と考えられているロープ小屋ですが、そこで見つかった血痕の状態はどうだったのでしょうか。また、犯人グループが使用したとしたなら5日夜に周辺住民は異変に気づかなかったのでしょうか。

 この小屋は、昭和10年3月に建てられ、20年8月まで所有者によってマニラロープ製造に使用されました。その後空き小屋となっていましたが、昭和21年2月にKZさんが借り受け、23年5月まで釣糸の製造に使用。そのあいだの22年5月にKZさんが燃料の薪割り中、斧で左拇指に骨に達する大怪我をしましたが、警察はこのときの出血が原因でドアに血が付いたのだろうとしています。

 この小屋は血痕が見つかる前の7月6日朝にも既に西新井署員によって捜査されていましたが、そのときには血痕や犯罪に利用されたと思われる痕跡はありませんでした。翌7日には捜査本部の刑事らがより詳細な検索をおこないましたが、地面の状態、ほこりの積もり具合、周辺の雑草(小屋の周囲は草が沢山はえていました)の形状などからは、人体を運び込んだような痕跡はなく、室内の血痕も肉眼では発見できませんでした。もし血痕が下山氏のものなら新しく鮮やかな色をしていたはずなのにもかかわらずです。気づかなかったのは警察関係者だけでなく、報道陣も同様でした。周囲の常磐線下は水田と畑ですが、水田は通れませんし畑には足跡もなかったそうです(道路に沿って迂回すれば人家があるので、運搬路としては畑の中を通るくらいしか選択肢がありません。『生体れき断』p136)。また、この小屋のすぐ裏手の家の住人は、7月5日は夜10時頃まで仕事をし常磐線の土手に沿って帰宅しましたが、何も変わった様子はなく、その日は夜12時頃まで起きていたそうですがロープ小屋では物音ひとつなかったと述べています。

 なお、後になって調べられたKZさんの血液型は、鑑識課の記録に誤字があり判然としませんが結果はAMqもしくはANqでした(古畑氏は『今だから話そう』ではANq(p237)、『資料・下山事件』ではAMq(p214)と述べ、矢田喜美雄氏は『謀殺 下山事件』でANQと述べています(p184)。「血痕群の分布状況」でもそうでしたが、ここでもやはり証言は一致していません。どうしてなんでしょうか)。このKZさんの血液型は、誤字のために血液型が判然としないとはいえ、本人から採血して検査されたものですのでAとqという検査結果は信頼できると思われます。「血痕の血液型鑑定について」で紹介したように、血痕の血液型鑑定がABO式以外はあまり信頼に価しないということになれば、ロープ小屋の血痕はA型のKZ氏のものである可能性も十分考えられます。


【参考文献】
佐藤一著 『下山事件全研究』(時事通信社)
関口由三著 『真実を追う』(産経新聞社)
  1. 2008/03/18(火) |
  2. 血痕
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『トンデモ本の世界U』 と学会(編) 楽工社

 と学会が下山事件を扱っているとは思いませんでした。この本の下山事件の章を執筆しているのは永瀬唯氏。批判対象は松本清張氏の『日本の黒い霧』で、その論拠になっているのが佐藤一氏『松本清張の陰謀』です。『日本の黒い霧』にはたくさんの章がありますが、永瀬氏は特にその中の「下山国鉄総裁謀殺事件」を取り上げて批判しています。永瀬氏は佐藤一氏の経歴を勘違いしていて、GHQ支配時代に「国鉄労組の活動家」「プロの鉄道マン」だったとしていますが、佐藤氏は国鉄ではなく東芝に勤務していました。細かく内容を紹介するとこのブログで書くネタが少なくなってしまうのでやめますが、「主張者が自らの陰謀のシナリオの間違いを認めた後でさえ、それはのちのちまでまかり通ってしまう」という指摘はもっともであると思います。

 下山事件と聞いて「よく知らないけど、他殺っぽいんでしょ?」と答える人は多いと思いますが、他殺・謀殺というメッセージはそれだけ強烈で人の心に浸透しやすく残りやすいということでしょう。また、一度他殺だという枠組みが頭の中でできてしまうとなかなか変わりません。管理者は昔は他殺だと考えていましたが、その頃は自殺説の内容をよく知らなかったにもかかわらず自殺説の主張を頭から馬鹿にしていました。そんな状態では客観的で批判的な思考もなかなかできません。そうなったひとつの原因はやはり情報不足だったよう思います。

 いくつかの著作に見られる小手先の印象操作や、都合の悪い情報は徹底的にスルーするといった行為は、ノンフィクションという分野では極めてアンフェアで性質が悪いと思うのです(松本清張とは関係なく一般論です)。そもそも興味をもって読み始める読者というのは自ら無意識に著者の色眼鏡をかけたがっているともいえます。そして著者は一度彼らに色眼鏡をかけさせることに成功したら、あとは多少強引な論理や根拠のない推理でも納得してもらえるのです。…と、今こう書いている管理者も色眼鏡をかけているのは自分ではなかなか気づかないものなので、注意しないといけないとは思っていますが。

 松本清張氏に話を戻すと、「この列車についての私の推測を崩すことで、他殺説そのものを崩せると錯覚している者がいるとすれば、見当違いである」(『松本清張全集30 日本の黒い霧』p440)という態度であったようですが、彼の発言の影響力の大きさや当時の田端機関区の国鉄職員のことを考えると複雑な思いがします。
  1. 2008/03/18(火) |
  2. 下山事件関連書籍
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血痕の血液型鑑定について

 矢田氏や古畑氏の著書によると、線路の枕木上の微量の試料からABO式のみならずMN式、Q式までいくつかの血痕では明らかになっています(「血痕群の分布状況」参照)。しかし、血痕の血液型の鑑定書を作成した当時東大助手の中野繁氏(「血痕は新しかったのか?」参照)は、血液型判定はABO式くらいまでしかやっておらず、古畑氏の『今だから話そう』の血液型の記述については、誤記でなにかの間違いではないかと述べています(「血痕はだいぶ古いものじゃなかったですかね。…(中略)それに判定も、そんなに詳しいところこまでやらなかったと思いますよ。せいぜいA・B型程度の判定程度」)。AMQ型の血痕が見つかったとされるロープ小屋についても、中野氏は下山氏のものとは違っていたとし(「ロープ小屋の血痕は、たしかに下山さんの血液型とはちがっていましたね」)、野田金次郎氏は、A型までは判明したがその後は量が少なく調べられなかったと述べています。

 警視庁鑑識課の「下山事件臨場表」とによると、A型が検出されたとされていますが、鑑定にあたった平嶋侃一氏は、下山氏の血液型に結びつくという結論は得られたという記憶はないとしています。同じく鑑識課の北豊氏は記憶がおぼろげで、血痕の量が少なかったので人血かどうか判定するのがやっだったように思うが、臨場表にA型とあるならばそうだったのかもしれない、と述べています。当時北氏は他殺ではないかと考えていたそうで、もし血液型が下山氏と一致していたならば記憶に強く残るのではないでしょうか。ちなみに、言うまでもなく検査は厳正におこなわれたものの、当時の鑑識課はほとんど全員他殺だろうと考えていました(『下山事件全研究』p416)。

 では前回のエントリで触れた80ccの保存血液についてはどうだったのでしょう。中野氏によると、その大分あった血液を使って検査しても、MN式のところまでがやっとでQ式になるとどうしてもうまくいかなかったそうです。検査用の血清に問題があったのではないかというのが中野氏の推論です。抗Q抗体は当時は研究者各自がブタの血清から作成していましたが、中野氏によると作成するのが非常に難しく、またそれがQ型だけに作用するのか問題だったようです。おそらく毎回一定の力価の抗体を作るもの困難だったのではないでしょうか。しかし、もし抗体に問題がなかったとしてもMN型やQ型になると抗原物質が変化しやすく、体外に出てから時間が経った血液だと結果が安定しないようです。佐藤一氏は三木敏行氏(元東大法医学教室教授)の次のような記述を引用しています。「血痕のM抗原の有無の判定は中々困難で、余程はっきりした実験成績が得られない限り、判定を保留したほうが良いだろう。その他の血液型(※ABO式を除く)については、検査成績の再現性に難点があり、証拠として取り上げるのは今(※昭和42年)のところ無理であろう」。また、最近の文献でも「血液が古くなったり、着衣に付着して血球の形態を失うと、ABO式血液型を例外にすれば型検査は困難になる」と述べられています(『個人識別 法医学の最前線から』p47)。

 以上を総合して考えると、轢断現場周辺で見つかった血痕の血液型鑑定に関して結果にある程度信頼がおけるのはABO式まで、ということになるのではないでしょうか。日本人の約3分の1がA型であることや血痕は相当古いものだったという証言も併せると、血痕に特別な意味を見出す必然性はかなり弱くなるといえるでしょう。

 話は変わりますが、下山事件の血痕の血液型鑑定の方法等については、詳細が明らかになっていないのが管理者としては残念に思います。弘前事件、松山事件、財田川事件などでは裁判で血痕鑑定の結果の是非が焦点になったので、詳細な鑑定方法と結果がわかります。ちなみに現在ではMN型はMNSs型と呼ばれています。Q式血液型はその後独立した遺伝形質とは認められなくなり、現在ではP式血液型と同じだと考えられています。


【参考文献】
佐藤一著 『下山事件全研究』(時事通信社)
佐藤一著 『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』(三一書房)
木村康著 『血痕鑑定』(中央公論社)
勾坂馨著 『個人識別 法医学の最前線から』(中央公論社)
  1. 2008/03/17(月) |
  2. 血痕
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80ccの保存血液

 線路とロープ小屋で採取された血痕の鑑定が進むなか、やはり下山氏本人の血液型を正確に把握しておくことが重要だということになりました。下山氏の血液型はAMQ型だとされていますが、それはどういういきさつで判明したのでしょうか。『謀殺 下山事件(新風舎文庫版)』を見てみると、まずメンデル遺伝学を援用し、70パーセントの確率でAMQ型であろうというところまで突き止めています(p176)。次にやはり実際の血液を使って血液型特定を試みようとしたわけですが、血液が残っておらず、総裁の腸が保存されていたガラスつぼのふたに付いていた少量の血液をなんとか見つけ出し、MN式の検査のみをおこない、Mと判定しています(p179-180)。

 この部分の記述を初めて読んだとき、当ブログ管理人は違和感を覚えました。何故、司法解剖がおこなわれた東大で上記のような間接的な方法や、やっとのことで見つけてきた血液を用いて血液型を調べるのか、いくら死体に血液があまり残っていなかったとはいえ、まったく採取できないほどではなかっただろう、ということです。そして事実、東大には司法解剖の際に採取された80ccの保存血液があったというのです(『下山事件全研究』p416、『資料・下山事件』p293、『真実を追う』p46)。80ccといえば、血液型鑑定には十分な量と思われます。にもかかわらず、なぜ線路上の血痕の鑑定作業時までに下山氏の正確な血液型が判っていなかったのでしょうか?

 次は血液型鑑定の詳細を見てみます。
  1. 2008/03/15(土) |
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『封印されていた文書 昭和・平成裏面史の光芒 Part 1』 麻生幾(著) 新潮社

 この本の新しいところは、捜査一課で下山事件にリアルタイムで係わった刑事たち(金井岩雄氏、杣良男氏)にインタビューし、彼らが他殺という推定(捜査が始まる前の捜査一課員の多くは他殺だろうと踏んでいました)から自殺の結論に至るまでの捜査と思考の筋道を丁寧に辿っているという点であって、烏麦だけが決め手でもありませんし、またそれを新情報のように書いてもありません(「諸永裕司氏のこと」参照)。したがって、なにか特に新しい証拠や証言が出てくるわけではないのですが、陰謀に加担したと考えられがちな捜査一課の刑事たちが血の通った人間として登場し、彼らの思考経路を辿れるという意味で貴重な文献と言えます。ただ、他殺に違いないと思っている人が読むと退屈かも知れません。管理者も他殺の可能性が高いと思っていた頃に読んだとしたら、退屈極まりないと感じたでしょう。
  1. 2008/03/15(土) |
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諸永裕司氏のこと

 諸永裕司氏が自著において、末広旅館のNS氏が元特高警察関係者であったことを「新情報」として記述していることは既に「平成三部作のこと」で指摘しました。ですがNS氏が元特高であったことは管理者の知る限り、1964年に平正一氏が、1969年と1970年に関口由三氏が、そして最近では1986年に増田滋氏が周知の事実として語っています(「平成三部作のこと」「末広旅館の主人NS氏」、および事件関係ブログさんの「下山事件: 諸永裕司氏のレトリック その2」参照)。もうないかなと思っていましたが、またひとつ見つけました。

 不勉強でお恥ずかしいのですが、当ブログ管理人はつい最近になって1999年に週刊新潮に掲載された、麻生幾氏による下山事件関係の一連の記事を読みました。この連載を評して諸永氏は『葬られた夏(文庫版)』(朝日新聞社)で次のように述べています(p138-139)。

 そもそも、下山のポケットから麦の穂が見つかったことは、事件直後の四十九年七月十七日付の朝日新聞が報じている。それをあたかも新証言のごとく扱っていることが不思議だった。僕はこの烏麦証言をした金井岩雄という刑事に直接たずねてみたいと思った。


 管理人が麻生氏の記事を読んだ限り、事実をあたかも新証言のように扱っているという印象は受けませんでした。一課の刑事たちがどういう捜査や思考を経て「自殺」という結論に至ったのかがよく分かる、優れたルポルタージュであると思います。それはさておき、その週刊新潮の麻生氏の連載には次のような記述があります(『週刊新潮』 1999年2月18日 p54)。

さらに同日、初めての目撃証言が捜査本部に飛び込んだ。死亡直前の下山総裁を見た、という重要証言だった。「遺体発見現場近くにある末広旅館から電話があったのです。偶然にも、旅館の女将の旦那さんが、かつて麻布鳥居坂警察署にいた警察官で、主任(関口)さんも知っているし、私の先輩でもあったことから、素早く電話をしてくれたのです。旦那さんは下山総裁を見てはいなかったのですが、奥さんがハッキリ見ていました」(金井)


 つまり諸永氏は、「末広旅館のNS氏が元警察関係者だったこと」、「捜査一課の関口氏とNS氏が知り合いだったこと」がはっきり書いてある記事を読んだのがきっかけで元捜査一課の金井岩雄氏にインタビューをし、次のような文章を書いているわけです(『葬られた夏 追跡下山事件(文庫版)』(朝日新聞社)p178)。

 また、亡くなってから十七年になる夫のSについて、捜査一課の数少ない生き残りの刑事である金井は雑談の中で意外なことを漏らしていた。
「最初に通報してきたのは末広旅館の旦那だったけど、このNSっていう男は偶然にも私の先輩でね。警察に入って間もないころ、麻布鳥居坂署で一緒だったんだ。そのとき、(関口由三・捜査一課)主任も顔見知りだった。元特高の警察官なんだよ」
 新情報だった。第一通報者で疑惑の証言をした末広旅館の女将の夫が捜査一課員と旧知の間柄だったことになる。
 やはり、自殺説は仕組まれていたのだろうか。


 「新情報だった」とありますが、これは諸永氏の勘違いや記憶違いでしょうか。しかし、「何が起きたのかをきちんと聞き出し、記録することが仕事じゃないか」(p232)と述べる諸永裕司氏が事実の記述に細心の注意を払わぬはずはありません。万が一ケアレスミスだったとしても、平成三部作の著者らすべてが気づかなかったというのもおかしな話です。諸永裕司氏に関しては事件関係ブログさんの一連の記事も是非ご覧ください。

 ひとつここで述べておきますが、他殺説関連の文献における不自然な引用方法等についてしばしば記事を書くので、いちいち揚げ足取りをしているようで見苦しく思う方も居られるかも分かりません。これまで取り上げてきた不自然な引用や事実説明は、非常に些細なものもいくつか含まれています。しかし、そういったところにこそ書いている者の誠実さ、不誠実さが端的に表れると管理人は考えています。

 ちなみに、週刊新潮に連載された麻生幾氏の文章は、『戦慄』と『封印された文書』(ともに新潮社)で読むことができます。加筆・修正されているので週刊新潮に連載されたものとは少し違いますが、当然、捜査一課の関口氏と末広旅館のNS氏が知り合いだったことも以下のように書かれています(『戦慄 昭和・平成裏面史の光芒』p263、『封印された文書 昭和・平成裏面史の光芒 Part 1』p424)。

 それは一本の電話だった。遺体発見現場近くにある、末広旅館という、今でならさしずめビジネスホテルといった風の宿からの電話だった。偶然にも、旅館の女将の夫が、かつて麻布鳥居坂警察署にいた警察官で、関口主任もよく知っていた人物だった。



「『下山事件の謎を解く』 堂場肇(著) 六興出版社」「三大新聞社と下山事件報道」の「下山事件をめぐって」という記事もご参照ください。
  1. 2008/03/14(金) |
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『キャノン機関からの証言』 延禎(著) 番町書房

 『葬られた夏』で諸永裕司氏がアメリカに渡ってインタビューした元キャノン機関所属の情報官延禎氏の著作(1973年出版)です。言うまでもなく延禎氏はキャノンと“身内”であり、そのことを念頭に置いて読まなければならないとは思いますが、とりあえず以下に下山事件関連部分の内容をご紹介します。巻頭の「この本に寄せて」という4ページにわたる比較的長い推薦文は、キャノンが書いています。

 この文献は下山事件に割り当てられた紙面はそれほど多くありませんし(326ページ中13ページ)、書いてあることは基本的に諸永氏の著書で述べているように「著者自身もキャノンも下山事件のことはよく知らないし、少なくともキャノン機関(Z機関)は関与していないだろう」、ということです。松川事件や下山事件について延氏に根掘り葉掘り質問され、うんざり答えるキャノンの様子などが書かれています。(「なんだか、鉄道のことでみんながギャアギャアいってるらしいが、鉄道とオレとがどうしたっていうんだ」「そんなこと……みんなと同じようにオレも何も知らないんだよ」「なぜ、なんでもかんでも、Z機関に結びつけようとするんだ」「知らないものは知らないんだよ」)

 ですが、『葬られた夏』には書かれていない事柄にもいくつか触れています。例えばアメリカ帰国後のキャノンについてなどです。キャノンは帰国後拘留され、下山事件や松川事件にキャノン機関が係わっていたのかどうか取調べを56日間に渡って受けたそうです(鹿地事件で日本とアメリカは国際的なやりとりにまで発展していたことから、本国でのキャノンに対する追求はかなり厳しかったようです)。しかしこの徹底的な取調べも結局はキャノンの身の潔白を証明することになり、釈放後彼は軍関係の職に就いています。アメリカ本国でのしつこく容赦のない調査を経てもなお下山・松川事件への関与の可能性が見出されなかったことから、延氏は「オレは何も知らなかった」というキャノンの言葉は真実であろうと述べています。そして、下山事件がもし他殺であるなら、当然数人から多人数による共同犯行になるはずだが、現在までどこからも確実な証人が現れないところを見ると、情報官である著者の感覚からすれば自殺の可能性が高いと述べています。

 上記の事柄以外に下山事件関連について書かれている部分を簡単にまとめると、
・キャノン機関はJSOB(総合特殊作戦本部)所属であり、CICの所属ではないこと
・CICは積極的な諜報活動をするよりは敵の諜報活動を摘発したり、その活動を妨害することが任務であり、下山・松川事件のような大事件を起こすとは考えにくいこと
・キャノン機関の目的は謀略というよりもむしろ、情報収集とスパイ養成であり、下山・松川事件は管轄外であること
・ウィロビーも下山・松川事件の陰謀については何も知らない様子であること
などです。

 下山事件とは関係のない章ですが、1970年に渡米した延氏にウィロビーは、「日本ではキャノン機関はよほど大きい組織のように思われているらしいが、おかしなことだ」と述べています(p90-91)。

 『葬られた夏』で問題となっていた延禎氏の来日時期ですが(五月か六月に日本で下山氏に会ったという証言を撤回して、事件後の九月に来日したと諸永氏の著作では述べています。文庫版p111)、この本では「残念ながら私が”Z機関”ことキャノン機関の幹部として入ったのは、これらの事件(※下山・松川両事件のこと)が起こった四、五ヵ月後のこと、一九四九年末である」と書かれています(p311)。来日と同時にキャノン機関に所属したのかはこの本からは分かりません(『葬られた夏』によると同時のようですが。文庫版p100)。読み落としている可能性がありますが、来日時期は明記されていないように思います。見つけ次第加筆します。

 下山事件とは直接関係はありませんが、諸永氏もインタビューしているビクター松井氏について面白いことが書かれていました。松本政喜という人の著書(おそらく『そこにCIAがいる』という文献だと思われます。管理者は読んだことはありません。)によると、ビクター松井がキャノンへのうっぷんから、帝銀事件も松川事件もキャノンの仕業だという極秘情報を松本氏に語ったのだそうです。延氏は松本氏の著作の信憑性には否定的です。
  1. 2008/03/12(水) |
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著者というフィルター

 実際に当事者に会ってインタビューする、言うまでもなくこの方法は極めて重要なアプローチなのですが、物証とは異なり、著者というフィルターを一度通して世に出るため、フィルターの性質によって、出てくる情報の内容はかなり違ってきます。下山事件にもそれは当てはまり、今後近いうちに紹介すると思いますが、同一人物の証言でもインタビュアーの立場によって記述がかなり違ってきます。当事者の多くが鬼籍に入っている下山事件の場合は特にそうですが、情報を受け取る側の人間としては、著者がどれだけ証言を誠実に客観的に伝えているのかを知ることは困難です。しかし、様々な資料を辿り、証言の伝えかた、資料の引用のしかたなどをひとつひとつ調べていけば、ある程度のことは見えてくるように思われます。ちっぽけなこのブログですが、その判断の一助になれば、と考えています。
  1. 2008/03/11(火) |
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『日本怪死人列伝(文庫版)』 安部譲二(著) 扶桑社

 安部譲二氏の父親は下山氏と大学時代に同期で親友だったとのことですが、下山氏の自殺説を知ると、「馬鹿な、そんなことを下山がするもんか」「下山が自分の仕事場で、自殺なんかするもんか」「下山はあんな旅館でやすんだりするもんか」と眼に涙を浮かべながら激したといいます。この本の下山事件に関するオリジナルな情報は上記の「安部氏の父親が、下山氏は自殺するような人間ではないと思った」という以外には何もありません。そのほかの部分は矢田喜美雄氏や松本清張氏の他殺説をほとんどそのまま紹介しているだけです。最後に下山氏の誘拐から凄惨なリンチ殺害、そして轢断に至るまでのやけにリアルな描写がありますが(下山氏がセリフを吐いたりしています)、特にリンチ殺害のシーンは読んでいていい気分はしませんでした。他殺説を主張するのにこの描写が必要だったとは思えません。
  1. 2008/03/10(月) |
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当時の東大法医学教室とその周辺

 錫谷徹氏は『死の法医学 下山事件再考』の「下山事件の反省」という部分で、下山事件発生当時東大総長だった南原繁氏の以下の言葉を引用しています。

古畑教授(法医学主任)と秋谷教授(裁判化学主任)は、しばしば総長室に見えて、その経過を語られたが、東大医学部の結論は『死後轢断』、すなわち他殺を意味するものであった。その間、慶応の中館教授の部分的に東大と異なる見解に基づく、自殺説に有利な発表がなされた。私は、いずれの大学であれ、日本の法医学界のために、この重大な事件に対して、ひたすら期待し、激励もしたのであった。(下山事件研究会編 『資料・下山事件』(みすず書房) 序文iii-iv)


 一見もっともな意見ですが、錫谷氏は医師の秘密保持の義務の観点から、南原総長への法医鑑定の経過報告という行為に違和感を示しています(p263-265)。また、東大とも医学とも無関係、しかも秘密の洩れやすい新聞記者という身分の矢田喜美雄氏が法医学教室に自由に出入りするだけでなく、鑑定の手伝いまでしていたという事実にも言及しています。これは当然学内で問題になったそうですが、南原総長の一声で公認になったといいます。錫谷氏は東大内部からの批判があったいう事実から、当時の東大全体の雰囲気が特殊だったのではなく、問題は古畑教授と南原総長の個人的特殊性にあったのだろうと述べています。『語りつぐ昭和史』(朝日新聞社)の矢田氏自身の回想によると(p206)、東大で研究生扱いになってからは「政府から小遣い程度の月給」も出ていたといいますから、やはり非常に特殊な状況になっていたことが分かります。

 佐藤一氏の『一九四九年「謀略」の夏』(時事通信社)によると、矢田氏は実際の鑑定作業で特に活躍することはありませんでしたが(これは素人なので当然です)、労力提供、現場移動の際の朝日新聞社の自動車利用、大量に消費した薬品類の購入資金調達での貢献は抜群であったそうです(p266)。
  1. 2008/03/10(月) |
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GHQの文書

 アメリカの国立公文書館などで発掘したGHQの英文文書の内容を週刊誌が取り上げたりすることがしばしばあります。下山事件についても「○○メモ」のように呼ばれる文書がいくつかありますが、いざ記事を見てみると、ほんの一部を訳しているだけだったりして、文書の内容全体を知ることはできません。別に週刊誌を信じないわけではありませんが、一部のみを全体から切り離して記事にすると、印象操作などが簡単にできてしまいます。文書発掘時の苦労話や内容の解釈などは省略して、全部原文で載せてくれたらいいのにと思うことがあります。それでは記事にならないのは分かるんですが…。原文をすべて読める形で載せてこそ、発掘した意味があるのではないでしょうか。
  1. 2008/03/09(日) |
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アンザッツ・ブルートゥング

 アンザッツ・ブルートゥングという聞き慣れない言葉は何かというと、「法医学論争(12) 死後轢断鑑定の妥当性の検討−その3 現代の法医学から見た下山事件」で簡単に触れた「筋線維と骨との附着部における出血」を意味するドイツ語です。生活反応に乏しい轢死体ですが、アンザッツ・ブルートゥングが認められれば生体轢断だと考えてもよいようです。管理者がこの言葉を知ったのは、『法医学のミステリー(文庫版)』(中央公論社)という文献でした(ひとつの章が下山事件に割かれています)。著者の渡辺孚氏は古畑氏の元で学んだ法医学者です。「法医学論争(12) 死後轢断鑑定の妥当性の検討−その3 現代の法医学から見た下山事件」の記事を書いたときには未読でしたが、この『法医学のミステリー』という文献に、東大法医学教室が下山氏の司法解剖の際にアンザッツ・ブルートゥングの有無を調べたのかどうか、そのヒントが次のようなエピソードとともに書かれていました。

 古畑氏の後を継いで東大法医学教室の教授になる上野正吉氏(当時北大)が昭和26年の日本法医学会での講演中に、それを聴いていた中館氏に壇上から「あなたはアンザッツ・ブルートゥングをご存知ですか?」と質問したのだそうです(演者が壇上から聴衆に質問するのは珍しいとのこと)。中館氏はどうやら知らない様子で、上野氏としては「アンザッツ・ブルートゥングも知らずに新聞記者相手に自殺説をぶつのはけしからん」という気持ちだったようです。しかし、知らなかったのは東大も同じようで、下山氏の司法解剖では調べられなかったらしいのです。中館氏も知らず、東大でも調べなかったアンザッツ・ブルートゥングは、轢死の法医学が未成熟だった当時の日本の法医学者には浸透しきっていない概念だったのでしょう。

 読んでみると著者の渡辺氏の下山事件に対する態度は、自他殺不明か、もしくはやや他殺説に近いと思われますが(法医学ではなく、矢田喜美雄氏や松本清張氏らの情報を元に)、少なくとも東大の法医学鑑定に関しては次のようにはっきりと意見を述べています。

…(略)根拠の弱い理由によって、死後轢断の結論を出している。明らかに傷口からもっと内部の検査をしていないことが、この発表の仕方によって歴然とする。本来は轢断が死後のものであることが積極的に証明されて、しかる後に死因は何かの追求に進むのだが、死後轢断そのものの証明はできていない。(p160)

…(東大法医学教室教授就任後も一貫して自他殺について明確な判断を下すことを控えた上野氏の姿勢について)当時の東大における解剖検査が十分にされずに、死後轢断の結論が出されて、その結論にまで導く大切な部分の論理に無理があるというふうに受け取れる。(中略)到底自殺したとは考えられない、という先入観に強く左右されたために、検査そのものが杜撰と言われても仕方がないような結末になったのではないか、というふうにも受け取れる。(p164)

もし古畑教授をはじめ東大勢に、死後轢断の学問的根拠が十二分にあって、自信をもって内外に主張することができるなら、陰でぶすぶす言うのではなく、警視庁のこの結論(※自殺という結論のこと)に対して、なぜ堂々と論ばくすることをしなかったのか。学問上のむずかしいことを知らない一般の人たちも、当然こうした疑問を抱いたに違いない。(p167)

  1. 2008/03/09(日) |
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ロイド眼鏡とゴム引シート

 最近血痕関連の記事をアップしていますが、柴田哲孝氏は死体運搬ルートや血痕群に関して従来の矢田氏や古畑氏のものとは異なる説明をしているので、ここで少し触れてみたいと思います。

 柴田氏は、プロである犯人グループが、いくら深夜だとはいえ裸のままの死体を抱えて何百メートルも線路上を歩くはずはなく、死体をゴム袋に入れて轢断現場まで運ばれたはずだという推理をしています。現場到着後死体をゴム袋から出して轢断現場に横たえ、空のゴム袋を手に荒川土手方面に線路上を歩いていった際に犯人らが残していったのが、点々と続く血痕だと考えれば辻褄が合うのだと主張しています(『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p379-382)。

 確かに辻褄は合っているとは思いますが、その着想の元になったのは、李中煥の証言と彼が作ったという下山氏が黒いゴム袋に入れられている合成写真でした。注意深く読んでもそれ以外には理由らしい理由は書いてありません。しかし柴田氏は佐藤一氏の『下山事件全研究』で取り上げられている当時の新聞から、自説を裏付けるような記事(記事の題名は「死体を包んだ? 天幕の布・西新井現場付近のドブ川から」。読売新聞、昭和24年7月11日)を発見します。記事の内容は、天幕とネルが末広旅館前のドブ川にあがったが何者かがそれを持ち去ってしまい、警察が捜査を開始した、というものです(『下山事件全研究』p74-75)。佐藤氏も述べていますが、現場近くではなく1キロ近くも離れた、しかも問題となっている末広旅館の前のドブ川から見つかったというのは、話ができすぎていますし、もし柴田氏の推理が正しいなら、犯人らは死体を置いた後でわざわざ血まみれのゴム袋を末広旅館の前に捨てに来たのでしょうか。

 拾い主も翌日にはあっさり見つかり、捜査は打ち切りとなりましたが(『下山事件全研究』p86、90、95)、柴田氏が注目したのはシートに包んであったロイド眼鏡でした。管理人はこの事実だけをもって下山総裁のロイド眼鏡と直結させるのは必然性がなさ過ぎるのではないかと思います。警察が強引にゴム引シートの捜査を打ち切ってしまったというのも特に根拠が示されているわけでもなく、柴田氏がそう書いているだけです。五反野の現場には矢田喜美雄氏のような他殺説の急先鋒で捜査一課に批判的な人もいたわけですが、その矢田氏ですら著書でこのゴム引シートには言及していません。そもそも死体がゴム袋に入れられて運搬されたのではないか、というのは柴田氏自身も認めているように「思いつき」に過ぎず、しかも李中煥の情報がある程度正しく、「下山総裁の死体がゴム袋に入れられた事実を李中煥が知っていたのではないか」という憶測が前提になっています。李中煥の証言は布施検事が自ら調べ、嘘だということが明らかになっていますが、柴田氏はそれをプロパガンダと見なしているため、嘘の中に一定の真実が紛れ込んでいるはずだとしています(『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p490)。柴田氏流のプロパガンダの定義等は既に「プロパガンダと真実と嘘」で述べたとおりです。

 ところで柴田氏は自著で引用する際に省略してしまっていますが(『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p383)、ロイド眼鏡のほかに、キナ鉄ぶどう酒ビンや割れ目のはいった象牙のパイプなどが白ネルとともにゴム引シートに包んであったそうです(柴田氏が省略したのは、「そのほかにも、キナ鉄ぶどう酒ビンや割れ目のはいった象牙のパイプなどがあり、」という非常に短い文章です)。このゴム引シートのエピソードは、柴田氏が自著で唯一『下山事件全研究』を引用している箇所です。なお、『資料・下山事件』所収の下山白書では、ゴム引シートについて「古く汚れており、お産の後始末をするために布に包んで捨てたものと認められる」と報告されています(p376)。
  1. 2008/03/09(日) |
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鉄道弘済会への怪電話

 下山氏が失踪する前日の7月4日のお昼近く、鉄道弘済会本部に下山氏殺害を予告する電話がかかってきた事実は他殺説の文献には必ずといっていいほど書かれています(『謀殺 下山事件』p299-300、『下山事件 最後の証言(増補完全版)』p56)。

 「一言伝えておくことがある。今日か明日、吉田(茂)か下山かどちらかを殺してやる。お前が騒いだり人に言ったりしたら、お前も生かしておかない」。電話を取った人物(うちのブログでは仮に「伊藤博文」さんとしましょう)が名前を訊くと、「誰でもいい。いずれ革命のときがきたら、戦場で白黒をつけよう。その時になればわかる」と答え、電話は切れました。

 非常に緊迫したやり取りです。ですが、電話をかけてきた人物はその前に次のようなことを言っていました(矢田氏も柴田氏も省略しています)。「もしもし、伊藤さんですか、伊藤ヒロブミさんですか、伊藤ハクブンさんというんですか」(『生体れき断』p76)。緊張感が一気になくなったように思うのは管理者だけでしょうか。電話を受けた人物が友人のいたずらだろうと思い、笑いながら「どちらでもいいじゃないか」と答えたのも無理もありません。この「どちらでもいいじゃないか」の後に続くのが、相手側の「一言伝えておくことがある」以下の言葉です。

 このブログでは基本的に人名はイニシャルにするというルールですが(「はじめに」)、そうするとわけが分からなくなるので今回は伊藤博文という仮名を使いました。実際の電話でも、名前の読み方についていきなり質問しています。ところでこの電話を受け取った人物に絡んだとても面白い記事が事件関係ブログさんにあります。事件関係ブログさんのほうでも実名は伏せて、Mとしています。
  1. 2008/03/08(土) |
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開かずのロッカー

 下山氏の司法解剖をし鑑定書を作成した桑島氏は後に横浜市立大学法医学教室の教授になっています。昭和61年1月13日付けの産経新聞によると、横浜市立大学法医学教室には下山氏を解剖した際の写真や組織標本が”開かずのロッカー”の中に保管されているとのことです。この産経新聞の記事が出てから既に20年以上が経っていますが、今でもその資料は保管されているのか興味のあるところです。東京地検に提出されたという鑑定書もやはり未公開のままです。「下山白書」以外の捜査関係資料も現在のところ公開されていません。こういった重要な資料がいつか公開されることはあるのでしょうか。資料が自殺説、他殺説のどちらを支持するものであろうと、それらが公開され真実が明るみに出ることを管理者は望みます。
  1. 2008/03/08(土) |
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血痕はその場所だけにしかなかったのか?

 平正一氏は線路上の血痕について、女性の生理血である可能性を指摘しています(当時の列車のトイレは外に垂れ流しでした)。汚物の放出口はレールの外側にあるとはいえ、風の強い日には内側の枕木まで飛ぶことも考えられる上、轢断現場近くにはシグナルがあり、列車は徐行・停車することがあったはずで、必ずしも列車外に出た血が霧状になるとは限らないでしょう(『生体れき断』p156)。管理者の個人的意見ですが、『謀殺 下山事件(文庫版)』(新風舎)p164-165に書かれている、「轢断点から五十三・八メートルから一二十一・六メートルまで」の間の「右側レールの外にはみ出ている枕木の端ばかり」に発見された「コメ粒ほどの大きさの」血痕は、走行中の列車のトイレから外に出たものである可能性が高いと考えています(死体運搬のストーリーでは、この米粒大の血痕も大きな血痕も同じ扱いをされています)。また、現場近くは飛び込み自殺の多い場所で、それまで30人あまりの自殺者があり、下山氏の轢断地点とまったく同じ場所ではないものの昭和24年に入ってからも既に2人の自殺者が出ていました。探索に使われたルミノールは微量の血液でも検出できるだけでなく、新しい血液よりも古い血液により鋭敏という性質をもっています(『下山事件全研究』p413-414、『生体れき断』p155-156、『資料・下山事件』p291、『血痕鑑定』p32)。

 こういった主張は突き詰めれば、「血痕は轢断現場周辺だけにしかなかったのか?」という疑問に行き着きます。これは忘れられがちですが、血痕に特別な意味を付与する上では非常に大切な前提です(同じようなことは「下山油」にも当てはまります)。警察関係者は、列車のトイレは垂れ流しなのだから線路上にルミノール反応があるのは当たり前と考えていたようですが(『真実を追う』p165、『資料・下山事件』p292、『刑事一代』p230)、実際に荒川鉄橋より遠く(上手)に調査範囲を広げたりしたことはなかったようです。もし実際に調査していれば、荒川鉄橋よりも更に上野方面に向って血痕が見つかる可能性は低くなかったのではないでしょうか。そもそも矢田氏らが血痕を探す範囲を荒川鉄橋付近までで終了したのは、ルミノールの残量も関係していたと思われます。もしあのときのルミノールがもっと大量にあり、探索範囲がもっとずっと広かったならどうなっていたでしょう。死体運搬ルートのきれいなストーリーは作れたのでしょうか。実際、轢断現場より下手方面をその後調べた警視庁鑑識課の岩田政義氏は次のように述べています(佐藤一著 『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』 三一書房、p79)。

旅客列車からは糞便が排出されているし、女性の生理血液も散乱するのだから、線路上はどこでも血痕反応は出ますよ。事実、あれから轢断点下手の綾瀬より上り線を検査してみましたが、いたるところに血痕反応がありました。だから問題になりませんよ。第一、あの血痕という奴が古いんです。事件当時の血液なんてもんじゃないんです。


 仮定の話はこれくらいにしますが、矢田氏らが調べた範囲内についてでさえ、荒川鉄橋の工事用渡り板で検出された血痕は矢田氏も柴田氏もはっきりとした理由は書かずにストーリーから除外しているのです(柴田氏は工事用渡り板で血痕が発見された事実には触れていないので当然といえば当然ですが)。
  1. 2008/03/08(土) |
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血痕は新しかったのか?

 もし線路の枕木とロープ小屋の血痕が下山氏のものだとすると、それらは当然血液型鑑定時には新しかったはずです。実際に血痕の鑑定にあたった東大法医学教室と警視庁鑑識課のメンバーの見解はどうなのでしょうか。また、轢断現場を早いうちから調べた警察関係者は現場上手の血痕群には気づかなかったのでしょうか。

 当時東大法医学教室助手だった中野繁氏は、記憶が鮮明ではないと断りを入れた上で、血痕は「大分古いもの」だったと証言しています(『下山事件全研究』p415、『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』p80)。大学の鑑定者同様、警視庁の岩田政義鑑識課員、平嶋侃一法医担当技官の両氏もやはり血痕はかなり古いものだったという見解を示しました(『下山事件全研究』p422、『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』p79)。ちなみに、血痕に関する検査は中野氏が中心になっておこなわれ、彼自身が鑑定書を検察庁に提出しているそうです(『下山事件全研究』p415、417、『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』p80)。矢田氏は『謀殺 下山事件』で鑑定書の存在に触れていますが、残念ながらその詳しい内容は関係者以外誰も知りません。

 轢断現場では早くから多くの警察関係者が轢断地点を特定するために注意深く線路を調べました。実際、鑑識課は7月6日だけではなくその後も度々出動し、血痕が出たといわれる枕木上も調べていたのです(『真実を追う』p166)。もし轢断現場上手の血痕群が新しく鮮やかな色をしていたならば、ほぼ確実に警察関係者の目に付いていたはずですが、肉眼検査では血痕は発見できませんでした。また、警察以外にも多くの報道関係者がいましたが、矢田氏より早く指摘する人は誰もいませんでした。

 血痕の鑑定者と現場の調査にあたった警察関係者の証言を総合すると、後にルミノールで検出された血痕は、変色し枕木の色と区別しにくくなった古いものと考えるのが妥当だと思われます。血痕が古いという事実だけでも、それが下山氏のものであるという確率はほとんどゼロになりますが、今後は検査内容等をもう少し詳しくみていきたいと思います。
  1. 2008/03/07(金) |
  2. 血痕
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血抜きと他殺説

 「法医学論争(9) ショック死説と失血死説」で紹介したように、下山氏が血を抜かれて死んだ可能性は低く、鑑定書作成者の桑島氏も「血を抜いたような傷は皮膚表面のどこにもなく」、「肺臓には血液が多かった」と述べ、失血死説(血抜きによる殺害)を否定しています。ではこの桑島氏の鑑定結果がどう記述されているか、主要な他殺説の文献を見てみましょう。


松本清張著 『日本の黒い霧(文庫版)』 p15-17
・絞殺、毒殺、銃殺、外傷による出血などはみとめられない
・体は5つに離断されていた(胴体、首頭部、右腕、両足首)
・頭部は粉砕、顔の表皮だけが剥ぎ取られたようになっている
・脳は3分の1程しか残っていない
・肋骨は押しつぶされたように折れている
・心臓には孔があき、肋骨の間から外部に飛び出している
・三百数十箇所の疵がある
・轢断面には生活反応がない
・薬物は検出されなかった
・死体に血液が少ない


矢田喜美雄著 『謀殺 下山事件(文庫版)』 p32-35、110、123
・体は5つに離断されていた(胴体、首頭部、右腕、両足首)
・顔面が頭部から離段
・脳が頭蓋骨から脱離
・胴体は脚部を伴っていない
・内臓に欠損
・骨盤が粉砕
・死斑がない
・死体にはほとんど血液が残存していない
・全身に380箇所の傷
・顔の表皮に20箇所の傷
・生活反応のある傷とない傷に分かれた
・圧倒的に多かったのは生活反応のない傷
・全ての離断面には生活反応がない
・全身の擦過傷には生活反応がない
・両手足の皮下出血(生活反応)
・睾丸と陰茎の出血(生活反応)
・眼瞼の皮下出血(生活反応)
・内臓の粘膜出血(生活反応)
・胃は空
・血液型はA型
・死亡推定時刻は5日夜
・薬物は検出されず
・歯がバラバラに抜けている
・胸部は肋骨が押しつぶされたように折れている
・心臓が右胸部に転位して孔があいている
・腹部は破裂し内臓が外に出ている
・死因は睾丸への外力によるショック死
・死後轢断である


斉藤茂男著 『夢追い人よ』 p14-15
・頭部、左肩、左下腿、右足関節の4つにバラバラになっている
・生活反応を示している損傷がある(数十箇所、全て打撲)
・生活反応を示していない損傷がある(三百数十箇所、全て切り傷)
・死後轢断
・死因不明


柴田哲孝著 『下山事件 最後の証言(増補完全版)』 p100-102
・血液型はAMQ型
・体重は66キログラム
・体は5つに離断されていた(胴体、首頭部、右腕、両足首)
・胸腹部の内臓に大きな欠損あり
・骨盤が粉砕
・顔面が頭部から離段
・脳が頭蓋骨から脱離
・死体にはほとんど血液が残存していない
・心臓には孔が開いており、やはり血液がない
・全ての離断面には生活反応がない
・全身に380箇所の傷
・生活反応のある傷とない傷に分かれる
・両手足の皮下出血(生活反応)
・睾丸と陰茎の出血(生活反応)
・眼瞼の皮下出血(生活反応)
・内臓の粘膜出血(生活反応)
・死因は不明


諸永裕司著 『葬られた夏(文庫版)』 p45、132
・バラバラの死体があった
・腰から下がねじれて首はない
・遺体に残された血が極端に少なかった
・380箇所の疵があったが、睾丸や両手足の皮下出血を除けば生体反応はほとんどなかった


森達也著 『シモヤマ・ケース(文庫版)』 p52-54、74
・体は5つに離断されていた
・体重は66キログラム
・全身に380箇所の傷
・生活反応のある傷とない傷に分かれる
・両手足の皮下出血(生活反応)
・睾丸と陰茎の出血(生活反応)
・眼瞼の皮下出血(生活反応)
・内臓の粘膜出血(生活反応)
・死体にはほとんど血液が残存していない


 『夢追い人よ』と『葬られた夏』は取材ノートという感じなので、解剖所見をごく簡単に紹介しているだけなのはまあいいのかなと思います。しかし、『夢追い人よ』の「頭部、左肩、左下腿、右足関節の4つにバラバラになっている」という記述は、明らかに間違いでしょう。また、『葬られた夏』の「つまり、下山が列車に轢かれた時点ですでに体内の血が大半なくなっていたということは、ほぼ定説といってもいい(p132)」という記述も同意できません。

 他は『日本の黒い霧』、『謀殺 下山事件』、『下山事件 最後の証言』、『シモヤマ・ケース』ですが、これらの文献はどれも桑島氏の解剖所見に基づいた失血死説への否定的意見、および肺臓に血液が多かった事実に触れていません。『謀殺 下山事件』と『下山事件 最後の証言』はその他の所見は相当詳しく記述しているにもかかわらずです。特に東大法医学教室に出入りしていた矢田氏が桑島氏の意見を知らぬはずはありません。これらの文献に共通しているのは、下山氏が血を抜かれて殺されたと推理しているという点です。
  1. 2008/03/05(水) |
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