下山事件自殺説紹介ブログ

他殺説に比べ情報が手に入りにくい自殺説の紹介をします。

法医学論争(8) pH時間測定法の科学的妥当性

 古畑氏によると20分以内で死亡時刻を推定できるというpH時間測定法ですが、本当にそこまで有用なものだったのでしょうか。「法医学論争(6) 新日本医師協会からの批判」と重複する箇所もありますが、その科学的妥当性と有用性について今回は検討してみます。

 『下山事件全研究』の著者、佐藤一氏はこの方法の妥当性について複数の学者に意見を聞いています。簡単にまとめると、1)性別、年齢、健康状態、空腹か満腹か、疲労度、地域差、死因、これら多くの因子が筋肉のpH値に影響するため、基準となるpH値の時間的変化そのものを決めることが難しい、2)測定したpH値のバラツキが非常に大きい上に、値の僅かな変化が推定時間に大きく影響してしまう、という理由でその後は使われていないのだそうです。秋谷教室で当時助教授だった塚元久雄氏は「あの方法はダメですよ。問題にならないですね。健康状態を一つだけ考えたって、それぞれの状態でpH値に大きな変動がありますよ。そのうえ、あの事件の当時はpH測定をロ紙でやっていたんですからね。ロ紙ですよ。正確な値が出るわけがないじゃありませんか。私は秋谷氏に、アレは止めたほうがいいといった。下山さんの死亡時刻をアレを使って推定して、それを発表するなんて、反対だったんです。だが、秋谷氏はやっちゃったんだなア」と述べています(『下山事件全研究』p253)。
※管理人注 「ロ紙」とは濾過するためのものではなく、pHを測る試験紙のことを意味しています。

 これだけで結論としては十分な気がしますが、もう少し詳しく見てみましょう。「法医学論争(4) 秋谷七郎教授のpH時間測定法による死後経過時間の推定」の方法の紹介とpH時間曲線の図を参考にしてください。既に上で指摘されていますが、pH値の変化は最小値と最大値の差でもわずかなため、0.1程度の誤差でも推定時刻に大きな狂いが生じることが分かります。また、pH時間測定法では標準曲線が死後の筋肉の「理想的なpH時間曲線」(基準)であることが前提となっていますが、モルモットの個体差、死因(絞殺、毒殺等)、温度等によってかなり異なる形の曲線が得られ、相当なバラツキがあるようです(秋谷氏が昭和25年の第34次日本法医学会総会で示したデータは数が少なすぎるので、個体差の効果なのか死因・温度の効果なのかハッキリしませんが)。ここで忘れてはならないのは、秋谷氏が死亡時刻推定のために使った標準曲線のもとになったモルモットと下山氏では種、死因、死後の諸条件など(温度等)すべてが違うということでしょう。果たしてモルモットのpH値を基準と見なしていいのか疑問です(秋谷氏は種差は問題ではないと述べていますが、具体的なデータをもとにした発言ではありません)。

 pH値の測定法も事件当時は感度が低い(単位0.2以下は測定不能)上に実験者の主観も混ざる試験紙法を使っており、わずかな誤差が大きな推定時間の違いとしてあらわれるpH時間測定法としては問題がありました。また、標準曲線と死体のpH時間曲線が最もフィットし重なり合う位置というのは、なんと測定者の「主観」によって決められていたらしいのです(おそらくこれが下山氏の推定死亡時刻が何回も訂正された理由のひとつだと考えられます)。上記のふたつの過程で主観が紛れ込むpH時間測定法の客観性と科学性は、秋谷氏や古畑氏が言うほどのものではなかったようです。秋谷氏は、事件の翌年には試験紙法からガラス電極測定器を使用した、より精度の高い方法を採用していますが、このpH時間測定法の最も深刻な問題は、pH測定の精度という技術的な点にあるのではなく、むしろ方法そのものの原理や前提にあるということは、上記の説明でお分かりになると思います。また、重要なことですが、下山氏自身の筋肉に関するデータは、すべて精度の低い試験紙法によって得られています(残された筋肉の量や、この方法の原理からいって下山氏の筋肉は事件直後しか使えません。ですから、下山事件に関して言えば、ガラス電極測定器は理想的な「標準曲線」を得るために、死後のモルモットの筋肉のpH値を測るために使われたはずです)。

 最後にダメ押しで他の研究者のふたつの追試実験の結果を紹介します。人間を使った実験の結論は「個体差が大きすぎ、pH法だけで死亡時刻を推定することはできない」というものでした。家兎を使った実験では、同一個体から取った筋肉を別々のシャーレにとってpH計でpH値の継時的変化を見てみると(これは秋谷氏と同じ方法)、28時間後にはpH値に相当な違いが見られたそうです。pH時間測定法の前提からすると同じ形の曲線が得られるはずですが、秋谷氏の方法では、「同一種同一個体の筋肉」を使ってすら安定したpH値の時間的変化が得られなかったということです。
 
 次に『下山事件全研究』以外のソースを見てみましょう。昭和61年1月9日付の産経新聞で、当時、秋谷教室の研究生として鑑定に立ち会った日大理工学部教授の沢村良二氏は、「筋肉内のpH曲線の理論は戦後、海外から紹介され、秋谷先生が興味を持っていたのは事実ですが、秋谷先生がこの理論を東大の学生たにち初めて講義したのは下山事件の起こるほんの二、三年前で、研究としては全く初期の段階だったんです。事件のあとでしたよ。秋谷先生は僕たち研究生に坂道を走らせて走る前と後で乳酸値がどう違うか、あるいは、ソバを食べた時と、うどんを食べた時とでどう違うか、調べたりしていたんです。笑い話のようですが、そんな基本的なことも分かっていなかった。結局今、この理論は死亡時間の測定には全く使われていないですね。食肉の鮮度テストくらいですよ…」と述べています。つまり、秋谷氏のpH時間測定法は、検査する筋肉の「現在の状態」を知るには良い方法ですが、その筋肉が「どの位の時間を経て、どのように変化して現在の状態に至ったのか」を明らかにするには、到底役に立たないということです。技術的に格段に進歩した現在でも秋谷氏の方法が法医学領域で使われていないという事実が、この方法の問題の深さを浮き彫りにしています。

 八十島信之助氏(下山氏の死体を医師として最初に見たあの八十島氏です)は『法医学入門』(中央公論新社)のなかで死後経過時間の推定について「どの死体現象にも環境の条件が大きく作用する…(中略)。では各種の死体現象の中でなにがいちばんたよりになるか、どの数値をもっとも重視して総合的な判断をすればよいかといえば、環境条件による変動がなるべくすくないもの、ということになる。また死体の個人差もなるべくすくないことがのぞましい」と述べています(p166)。秋谷氏のpH時間測定法はそれらの条件に合わなかったようです。

関連サイト(事件関係ブログ)
下山事件: pH計
下山事件: pH計について その2
下山事件: pH計について その3
下山事件: pH計について その4
  1. 2007/12/11(火) |
  2. 法医学論争
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